望まなかった成功/ザ・マーヴェレッツ

 以前にもこのコラムで記したが、ショー・ビジネスの世界でアーティスト、シンガーが成功する要素は、才能は勿論、本人の強い意志とちょっとした運によるところが大きい。しかし、長いロック・ミュージックの歴史の中、デル・シャノンのように(【憧れと成功と影/デル・シャノン】参照)、本人の望みとは関係なく、周りの人々に祭り上げられてしまった例も数多くある。 

 今回取り上げるザ・マーヴェレッツは「プリーズ・ミスター・ポスト・マン」の大ヒットによってモータウン・レコード最初のヒット・ガールズ・グループとなった。だが、そこに至るまでの道程、そしてその後の人生は、まさに彼女達の望むところではない、周囲の思惑と、度重なるアクシデントに翻弄され続けたグループのひとつだ。

 

 1960年、ミシガン州デトロイト郊外の田舎街インクスター。その街で育ち、インクスター高校に入学した15歳のグラディス・ホートンは、学校の伝統ある合唱クラブに入部する。しかしR&B、とりわけドゥ・ワップが大好きだった彼女は、入部はしたがスタンダードな合唱曲ばかり歌わされる事にすぐ飽きてしまった。ホートンはクラブの部員の中から趣味の合う一年先輩のキャサリン・アンダーソン、ジョージアナ・ティルマン、ジュアニータ・カワートを誘ってガールズ・ドゥ・ワップ・グループを結成。更に彼女達の噂を聞いた合唱クラブの伝説的OGで卒業生、ジョージアナ・ドビンズがグループに参加する事になった。

 こうしてスタートした彼女達だったが、“私たち、まだ人前で歌えないわね”と冗談で言い合うくらい自分達に才能は無い、だがらコレは趣味、と考えており、グループ名も特に決めていなかった。ある日ホートンはそうした冗談、Can‘t sing yet(まだ歌えない)を繋げた造語を思い付き、グループ名をThe Casinyets、ザ・カジニェッツと命名する。

 

 翌1961年、彼女達は練習を重ね、意味不明だったグループ名も解り易いザ・マーベルズに変更、在学している高校のパーティーに出演する。ところが、そのパフォーマンスを観て驚いた高校の教師が、地元のタレント・コンテストに彼女達を勝手にエントリーしてしまう。しかもこのコンテスト、3位までの入賞者は、デトロイトで新興レーベルとして知名度が上がってきていたモータウン・レコードのオーディションが受けられるというスペシャルなコンテストだった。

 教師の期待とは裏腹に、コンテストでマーベルズは結局4位で終わる。その結果に“まあ、私たち、こんなものでしょ?”と十分満足していた彼女達だったが、エントリーした教師は校長先生を巻き込んで、なんとモータウンの役員でもあったブライアン・ホーランドとロバート・ベイトマンに手紙を書き、彼女達にもう一度チャンスを与えるように直訴。このゴリ押しによって、彼女達はデトロイトまで出向き、特別にオーディションを受ける。

 オーディションを終えた彼女達にモータウンの社長ベリー・ゴーディ、そして既にレーベルの稼ぎ頭となっていたスモーキー・ロビンソンから、“パフォーマンスはまずまず、オリジナル曲を作ってくればデビューできるよ”、という可能性を含みながら厄介払いのようなアドバイスを彼女達に送った。インクスターの街に戻る途中“やっぱり私たち、こんなものでしょ?”とモータウンのオーディションを受けられた事で満足していたホートン、キャサリン、ティルマン、カワートの反応に対し、ドビンズは少し違っていたようだ。デビューの一歩手前まで来ているチャンスを感じてはいたが、寧ろ当時飛ぶ鳥落とす勢いのソングライター、スモーキー・ロビンソンから、高校生にオリジナル曲を作ってこい、というアドバイスに憤りがあったのだろう。合唱クラブの歴史始まって以来の音楽的才能を持っていたドビンズは、地元の友人でミュージシャン、ウィリアム・ギャレットとオリジナル曲を作リ始める。ギャレットの未完成だった曲に、ドビンズがメロディを大幅に修正、更に作詞、ドゥ・ワップなコーラス・アレンジも施した。こうして「プリーズ・ミスター・ポストマン」が出来上がった(因みにこの曲が大ヒット後も長い間ドビンズの名前はクレジットされていた)。

 「プリーズ・ミスター・ポストマン」を携えた彼女達に、モータウンのテリー・ゴーディはレコーディング契約に同意した。しかしアクシデントが起きる。肝心のドビンズが、ショー・ビジネスを嫌う敬虔なクリスチャンの父親から猛反対に遭い、ホートンに全てを託しグループを脱退してしまったのだ。ドビンズは去り際に同じインクスター高校の卒業生でドビンズと変わらぬ音楽的才能を持ったワンダ・ヤングを紹介、ワンダがグループに加入する。

 こうしてデビューに漕ぎ着けた彼女達は、グループ名をゴーディの提案でマーベルズからザ・マーヴェレッツに変更。モータウンの誇るドジャー・ホーランド・ドジャー等ソングライター・チーム、そしてミュージシャン達によって更に手を加えられ、ホートンがリード・ヴォーカルを取った「プリーズ・ミスター・ポストマン」が1961年8月に発売される。ドビンズが遺したキャッチーなメロディと、後のガールズ・グループのプロト・タイプになる独特のサウンドで徐々にセールスは伸び、まずR&Bチャートで1位を獲得、そして12月には遂に全米チャートでも1位を記録した。当時のアメリカのミュージック・シーンにおいて、黒人グループの1位はR&Bチャートに限られており、ザ・マーヴェレッツのように全米チャートでの1位、しかもデビュー曲での1位は快挙だった。そしてモータウン・レコードにとっても初の全米チャート1位のレコードとなり、レーベルとして躍進する大きな原動力となった。

 彼女達の成功を逃さないように、モータウンは当時チャビー・チェッカーの「ザ・ツイスト」で流行の兆しを見せていたツイストを取り入れたナンバー「ツイスティン・ポストマン」をセカンド・シングルとしてリリース、1962年初めに全米チャートで34位を記録するが、アルバム「プリーズ・ミスター・ポストマン」は失敗に終わった。この時のモータウンはまだアルバムのセールスに関するノウハウは、大手メジャー・レーベルに比べ明らかに不足していたのだ。再びシングル路線に切り替えたザ・マーヴェレッツは、ホートンが作曲、ソングライター・チームが手を加えて完成した三枚目のシングル「プレイボーイ」で全米チャート7位を記録。続く4枚目の「ビーチウッド」は、当時モータウンの若手ミュージシャン兼ソングライターだったマーヴィン・ゲイとザ・マーヴェレッツのメンバーによる共作で全米チャート17位を記録した(因みにマーヴィン・ゲイはザ・マーヴェレッツの初期のレコーディングでドラムを担当していた)。

 しかし、こうした成功は、彼女達の人生を狂わせていった。ワンダを除く4人はまだ高校生だったが、ヒット曲が続いた為、全米各地を周りテレビ・ラジオ出演と多忙な日々を送るようになって結局学校を中退せざるを得なくなった。更に、グループ内で楽曲のリード・シンガーをホートンと分けあってきたワンダが、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズのメンバー、ボビー・ロジャースと付き合い始め、ソロ・シンガーとしてデビューしようと画策していた事が発覚。こうした日々が多感な年齢のメンバーに精神的なストレスを与えるようになる。まず1963年初め、カワートがグループを脱退、翌1964年には元々鎌状赤血球貧血の患者だったティルマンが狼瘡と診断され、激しいスケジュールには耐えられないとドクター・ストップが掛かり1965年にグループを離脱する。

 ホートン、キャサリン、そして上昇志向の強いワンダの3人となったザ・マーヴェレッツに、著しい時代の変化も襲いかかる。まずモータウンの後輩グループ、ダイアナ・ロスのザ・スプリームス、そしてマーサ&ヴァンデラス等の台頭。特にモータウン社長ベリー・ゴーディ肝入りのザ・スプリームスはソングライター・チーム総動員で楽曲を作り、宣伝を含め大きな投資を行い、それに見合うヒット曲を次々とリリース。その分、ザ・マーヴェレッツは割を喰うようになってきた。更にビートルズを始めとするイギリスのビート・グループの出現が追い討ちを掛ける。彼女達と同時期に人気を得たガールズ・グループ、ザ・ロネッツ、シュレルズ等もこの状況に苦しんでいた。

 

 1965年、トリオとなったザ・マーヴェレッツに対してモータウンのプロデューサーは、ワンダをメインのヴォーカリストに据える。ワンダがこの時にボビー・ロジャースと結婚した事もあり、またワンダの強いスピリッツ、ルックスを買っての抜擢となった。新体制となったザ・マーヴェレッツはシングル「アイル・キープ・ホールディング・オン」、「デンジャー!」を続けてリリースしチャート・イン、同年後半、スモーキー・ロビンソンの作曲「ビル・ウィズ・メス・ウィズ・ビル」が全米チャート7位を記録し、ザ・マーヴェレッツは持ち直したかのように見えた。だが、この時期からグループの創始者であったホートンはグループとの関わりを考えるようになっていた。そして1967年、シングル「マイ・ベイビィ・マスト・ビー・ア・マジシャン」リリース直前、遂にグループを脱退。モータウンはすかさずアン・ボーガンを代役に立ててグループを存続するが、その後のザ・マーヴェレッツの費用はゼロに等しいものとなり、シングルは出すがヒットは無く飼い殺しに近い状態となった。こうした状況にさすがのワンダもやる気を失い、コンサートやレコーディングのスケジュールに穴を空けるようになっていく。一方脱退したホートンはその後もモータウンの所属シンガーとして籍を残した。当時モータウンとアーティスト、ミュージシャンの間に各種の権利を巡る争いが発生しており、モータウン初期のミュージシャンの多くは、その争いの為まだ在籍していた。ホートンは自分達の権利の為にタイミングを伺っていたのだ。

 1970年、ワンダにスモーキー・ロビンソンのプロデュースによるソロ・アルバムのレコーディングの話が持ち上がった。それに対してモータウンはアルバムのタイトルを『リターン・オブ・ザ・マーヴェレッツ』と決めた。モータウンのグループの意見を無視した市場優先主義と、脱退していったメンバーへの想いから結成時からの唯一の生き残りメンバー、キャサリンはアルバムのジャケットに写真を使われる事を拒否する。そしてキャサリンはモータウンのスタッフ、広報を集め、グループの解散を宣言。このアルバムのチャート・アクションはR&Bチャートで50位に留まり、シングル・カットはされなかった。こうして前身のザ・カジニェッツを含め約10年に渡ったザ・マーヴェレッツは歴史に幕を下ろした。

 

 彼女達は好きな音楽を歌いたいという純粋な気持ちで始めたガールズ・グループで、決して成功は望んでいなかった。立派な卒業生を出したい一心からか、コンテストに勝手にエントリーした教師とゴリ押しした校長、グループの支柱だった先輩ドビンズの予期せぬ脱退、彼女達とは真逆で成功を夢見るワンダの加入、時代の激しい変化、そしてモータウンの使い捨てにも等しい身勝手さ。彼女達の歴史はまさに周囲の大人達に翻弄され続けたと言っても言い過ぎではないだろう。

 しかし、彼女達の功績は時を経て評価される。2004年にはヴォーカル・グループの殿堂入り、2013年にはリズム・アンド・ブルースの殿堂でファースト・クラス・シンガーに認定、また2013年と2015年にはロックの殿堂にエントリーされた。

 決して望んだ成功ではなかったが、ザ・マーヴェレッツこそが1960年代初頭、黒人ガールズ・グループのエポックであり、黒人レーベルのモータウン・レコードが音楽史に名を遺す最初の一歩を記録したグループであった事に間違いは無い。そして「プリーズ・ミスター・ポストマン」はビートルズ、ザ・カーペンターズを始め、数多くのアーティスト、シンガー達にカヴァーされ、半世紀以上過ぎた今もスタンダード・ナンバーとして息づいている。

 

 最後に、彼女達のその後を。

 最初に脱退したカワートは結婚し主婦になった。ティルマンはグループ在籍末期にザ・コントアーズのビリー・ゴードンと結婚、脱退後は地元インクスターで主婦として暮らしていたが持病が悪化し1980年35歳の若さで死亡。キャサリンはモータウン・レコードがデトロイトからロサンゼルスに移る際にインクススターに戻って結婚、キャサリン・シャフナーとして暮らしている。ワンダもロサンゼルスに行かずミシガン州サウスフィールドに移住、1975年ボビーと離婚するが、彼の死後はボビー・ロジャース記念館を運営している。ホートンに全てを託しグループを去ったドビンズは、インクスターで暮らし、時折テレビに出演している。そしてホートンはロサンゼルスに移り、そこで3人の息子を育てながらモータウンと権利問題について争い続けた。それが実ったのは2011年で全ての権利がメンバーに帰属する事を勝ち取った。彼女が脳卒中で亡くなった直後だった。

 グループの創始者だったホートンは、自らの残りの生涯で、人生を狂わせてしまった高校時代からの仲間達に報いる”何か”を遺したかったのかも知れない。

 

Text by 金子ヒロム