美しい“音”を追求した“鬼才”/ジョー・ミーク

 日々、我々が聴いているロック、ポップ・ミュージックは、ご存知の通りサウンドに様々な工夫が凝らされている。1950年代のエコー、1960年代のオーバー・ダヴィング、そして現在のサンプリングに至るまで、アーティスト、プロデューサーのコダワリがサウンドに反映されている。

そうしたサウンド・メイキングを技術者の立場から飛躍的に進歩させ、多くのヒット曲を制作したのが今回取り上げる“鬼才”ジョー・ミーク。彼はスタジオ・レコーディング技術の先駆者であり、またその性能、技術を最大限に駆使した最初のプロデューサーだった。ビートルズ登場以前の1960年代初期、イギリス・ポップ・シーンにおいて、数多くの楽曲をプロデュース、ビートルズのサウンドを創り上げたジョージ・マーティンも彼にアドバイスを求める程だった。しかし彼は単なるヒット・プロデューサーという名称では片付けられない、後に“鬼才“とまで言われるアーティスティックで波瀾に満ちた人生を過ごしている。

 

 ジョー・ミークは1929年4月5日、イギリス・グロスターシャー州で生まれた。幼い頃、電子機器に興味をもった彼は、ラジオ等電子部品の組立回路をバラしては作りを繰り返し、その構造と仕組みを独自に学んでいた。彼の興味は留まる事を知らず、遂に英国空軍のレーダー技師として働くようになる。そこで彼は“宇宙”という存在を知った。

 1953年からは電力会社で働きながら、そこで学んだ知識を基に彼はディスク・カッター・マシンを手に入れ最初のレコードを作る。これをキッカケに音楽制作にも興味を持ち始めたミークは、海賊ラジオ局として知られるラジオ・ルクセンブルグのプログラムを制作していたラジオ制作会社にエンジニアとして転職。アイビー・ベンソンの番組【ミュージック・フォー・ロンリー・ラヴァーズ】の担当となった彼は、様々な“音”の工夫を始めた。ハンフリー・リトルトンのジャズ・ナンバー「バッド・ペニー・ブルース」(1956年)を放送した時、ミークはピアノの音をイコライジングして放送したのだ。それまでのジャズ・ナンバーとは違ったサウンドにリスナーが反応、レコードはヒットした。

 “音”で表現出来る事を知ったミークはスタジオでレコーディング・エンジニアとしての仕事もするようになり、多くのジャズ、カリプソのレコード制作に携わる。ある時、ミークはサーガ・レコードから映画【ウエスト・サイド・ストーリー】で知られるアメリカの俳優:ジョージ・チャキリスのレコーディングの依頼を受けた。そこで彼はサーガ・レコードのウイリアム・バーリントン・クーペと知り合う。仲良くなったバーリントン・クーペが、ウイルフレッド・アロンゾ銀行の支援を受けている事を知ったミークは独立を決意する。

 1960年1月、ミークはバーリントン・クーペとともに、トライアンフ・レコードを設立。そこで手掛けたマイケル・コックス「アンジェラ・ジョーンズ」がチャートの1位を記録。当時マイケル・コックスは、ジャック・グッドのテレビ番組【ボーイ・ミーツ・ガール】のピック・アップ・シンガーでもあり、大ヒットはその効果もあった。インディー・レーベルでありながらチャート1位のヒット曲を出した事で、プロデューサーとしてのミークの評判は高まった。

しかし、ミークは会社の業績に全く無関心。自らの理想とする“音”を追求したアルバム『アウター・スペース・ミュージック・ファンタジー』、そしてコンセプト・アルバム『アイ・ヒア・ニュー・ワールド』を制作するが、それがレーベルの経済状態の悪化を招く事になる。結局トップ・ランクやパイ等他レーベルにトライアンフ・レコードの原盤を切り売り、レーベルは崩壊した。

 

 ミークは失敗にも負けず、新たにRGMサウンド、後にミークスヴィル・サウンドと呼ばれる音楽制作会社を、何故かおもちゃの輸入業者と共に設立、ウイルフレッド・アロンゾ銀行から財務担当者を迎えた。そしてミークはハリウッド・ロードの自宅、3つのフロアにスタジオを建設する。ハリウッド・ロード・スタジオからの最初のヒットは、ジョン・レイトンの「霧の中のジョニー」(1961年)で、見事チャートの1位を獲得。更にミークはレコーディングの為に集めたミュージシャン達でバンドを結成させる。トルネイドースと名乗ったこのバンドは、「ラヴ・アンド・フューリー」でデビューするが、ヒットには結びつかなかった。

 翌1962年、7月10日、NASAが通信衛星のテルスターを打ち上げ、パリからアメリカへのテレビ中継に成功。このニュースに衝撃を受けたミークは、レーダー技師として働いていた時から意識していた“宇宙”を再現する事を思いつき、すぐにトルネイド-スをスタジオに集めレコーディングする。すばり「テルスター」と名付けられたこの曲は、8月17日にイギリスでリリース、旧ソ連の衛星スプートニクの打ち上げから丁度5周年の10月4日に全英1位を記録。またアメリカのチャートでも3週連続の1位。イギリスのシンガー、グループがアメリカのヒット・チャートで1位になった最初の楽曲となった。

 「テルスター」は最新機器だった初期型シンセサイザー:クラビオリンを押し出して、オルガンがリードする当時のインストゥルメンタルとしては珍しい曲で、ミークがレーダー技師をしていた頃から彼の頭の中で鳴っていた“宇宙”の音を意識したサウンド・エフェクト、ミキシングによって画期的なサウンドとなった。ミークは技術を駆使し、誰も聴いた事のないサウンドを創り上げたのである。それはアメリカや旧ソ連が争うようにロケットを打ち上げていた宇宙開発の時代にマッチした音だった。

※因みにアメリカでは前年の1961年にデル・シャノンの大ヒット「ランナウェイ(邦題:悲しき街角)」でクラビリオンがマックス・クルックによってフューチャーされており(『憧れと成功と影/デル・シャノン』参照)、「テルスター」はイギリスでクラビリオンをフューチャーしてヒットした初のナンバーである。

 

 この大ヒットによってミークは1962年の英国「ベスト・セーリング・Aサイド」としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。また映画【リヴ・イット・アップ!(米題:シング・アンド・スウィング)】の音楽制作にも携わるようになる。更に1964年、ミークはロンドンで活動していたザ・ハニカムズと出会い、彼等をプロデュース。デビュー曲の「ハヴ・アイ・ザ・ライト」はイギリスでチャート1位、またアメリカでも5位と世界的なヒットを記録した。ミークのプロデュースでイギリスにおける3度目の1位作品となったこの曲は、ミークにとって最後の大ヒットとなった。

 

 しかし、こうした成功とは裏腹に、徐々にミークの心理状態は病んでいった。彼の目指す誰も聴いた事の無い音の構築と、ヒットを希望するレコード会社からのプレッシャー。相反する命題の前でパニックとなったミークは、他のレコード会社が彼のアイデアを盗むためにスタジオに隠しマイクをセットしていると訴えた。また、アメリカのプロデューサー、フィル・スペクターが自分のアイデアを盗んだと非難。更に同性愛者(当時のイギリスでは法律違反)で有罪判決を受けた事が彼の精神的ダメージに拍車をかける。遂に薬物にも手を出したミークは躁鬱を繰り返すようになり、エレクトロニクスの技術を使って死者と交信する事を真剣に考えるようになっていった。あげくフランスの作曲家ジーン・レッドラットから「テルスター」のメロディーは彼の楽曲「ラ・マルシェオーステルリッツ」からの盗作として訴えられる。こうした裁判費用や、ヒット曲が出ない事でミークは経済的にも追い込まれていく。

 1967年2月3日、ミークは発作的にショットガンで大家のバイオレット・セントンを殺し、その後、同じ銃で自殺を遂げた。その日は奇しくも彼がエレクトロニクスでコンタクトを取ろうとしたバディ・ホリーの命日だった。

 

 ミークの死後、ハリウッド・ロード・スタジオには数多くの未発表音源が遺されていた。ミークの死の直後、投資家クリフ・クーパーはその音源を300ポンドで購入し保存。それから41年後の2008年、その音源テープはオークションに出品された。テープ1,850本、4,000時間にも及ぶ音源には無名時代のデヴィッド・ボウイ、デニー・レイン、ビリー・フューリー、トム・ジョーンズ、ジミー・ペイジ、マイク・ベリー、リッチー・ブラックモア、ジェス・コンラッド、ミッチ・ミッチェル、スクリーミング・ロード・サッチ等の楽曲が、ミークの手による実験的なサウンドで収録されている。

 ミークが行なっていたレコーディング・スタイルは、ハリウッド・ロード・スタジオの3つのフロア別々にミュージシャンを入れ、個別に録音された音源をシンクロさせて、更に音を重ねた。そして、その音一つ一つにはエコーや最新の電子機器によるエフェクトを施す。また、別に録音した効果音のテープをシンクロさせる事も行っていた(これはサンプリングと同じ発想)。こうしたミークのレコーディング・スタイルは、当時アメリカで活躍したプロデューサー、フィル・スペクターによる同じ楽器のプレーヤーを倍の人数で演奏させて音の壁、ウォール・オブ・サウンドを構築したスタイルとまさに双璧だ。

 また、ミークは技術者だったので楽器の演奏、楽譜の読み書きが出来なかった。しかし、それは彼のヒット曲を創り上げる作業において障害にはならなかった。作曲において彼の集めたミュージシャン達が彼のアイデアを楽譜にしていった。彼は“技術者”らしく楽曲を構成する“音”に重きを置いていたと考えられる。そこは以前に本コラムで取り上げたイギリスのプロデューサーでプレーヤー出身のミッキー・モスト(『3分間の職人とビジネスマン/ミッキー・モスト』参照)とは大きく異なる。

 

 こうしたミークの“技術者”、“研究者”としての音に対する探究心を見ていると、彼にとってはメロディーの美しさよりも“音”の美しさが重要なポイントだった、と考えられる。更に、絵を描く画家のように、彼の頭の中で鳴っている“音”を実現させレコードに刻むアート感覚。そこには普通では理解できない天才的な閃きもあったはずだ。それ故に、その生涯、短い活動期間ではあったが、後のロックの歴史に強烈なインパクトを遺したのだろう。

 “鬼才”ジョー・ミークはプロデューサーというよりも、サウンド・メーカーであり、“天才”でもあった。しかし、アメリカとイギリス、同時期にミークとフィル・スペクターという二人の“鬼才”であり“天才”が存在した事は時代の偶然か。

 

 死後、あまり語られる事はなかったミークだが、1993年、ミークをリスペクトするテッド・フレッチャーによってオーディオ機器でジョー・ミーク・シリーズがリリースされる。現在同シリーズにはテルスターと命名されたマイクロフォンも販売されている。また2009年にはミュージック・プロデューサー・ギルドが、最も先進的なプロデューサーに贈られる賞にジョー・ミーク・アワードを設定。2014年の英NME誌によるオール・タイム・ベスト・プロデューサーで初めてランクインしている。

 

 最後にミークの音に対するコダワリを示す逸話を。

 有名プロデューサーになったミークに、ある新人バンドのプロデュース依頼が来た。彼はそのバンドのデモを聴いてヴォーカリストを外す事を条件にプロデュースを引き受ける。そのヴォーカリストはまだ16歳だったロッド・スチュアート。ロッドのファンの方には恐縮だが、おそらくロッドの声は、ミークの頭の中で鳴っている“音”にマッチしなかったのだろう。

 

Text by 金子ヒロム