“ワル”で“タフ”な初のガールズ・グループ/ザ・シャングリラス

 アーティストが“ワル”のイメージで売り出すと、同世代、そしてティーンの支持が得られる。自分達の代弁者であり、世間一般のティーンは少なからず“ワル”のイメージ、“ワル”いモノに憧れるからだ。しかし“ワル”でいる事はリスクを伴う。なぜなら大人達は“ワル”に黙っていない。1950年代のエルヴィスも、そして1960年代のビートルズでさえも、世間一般受けのする良いイメージ、クリーンなイメージで売り出していながらも、眉をひそめる大人達は少なからず存在した。

 今まで見た事の無い物が現れると否定したくなるのが大人であり、体制側の常だ。現在では考え難いが、体制側、大人達に叩かれる事で簡単に評判を落とす事を恐れ、中身は“ワル”でも品行方正で売り出す事が当たり前だった時代。そんな時代に敢えて“ワル”と“タフさ”で売り出し、成功した初の白人ガールズ・グループがザ・シャングリラスだ。

 

 1960年代初頭、ニューヨークのクィーンズ地区は、人種の坩堝のブロンクス地区と並んで治安の良くない、寧ろ最悪なエリアだった。そこで生まれ育ったベティとメアリーのウェイス姉妹、メリーアンとマージの双子のガンザー姉妹は、地元アンドリュー・ジャクソン高校の不良グループのメンバーで、御多分にもれず、ロックンロール、R&Bに夢中でヤンチャを繰り返していた。女の子達は楽器ができたわけでもなく、また音楽教育も受けていなかったのだが、ある日、近所で行われた黒人ドゥーワップ・グループ、リトル・アンソニー&ザ・インペリアルズのショーを観た彼女達は突然コーラス・グループを結成する。隣接したニュージャージー出身の白人ドゥー・ワップ・コーラス・グループ、ザ・フォー・シーズンズもブレイクし始めていた時期でもあり、白人でもR&B的な音楽が出来る、しかも楽器が弾けなくても声だけで出来る事に彼女達は気付いたのだ。

 結成後、彼女達は学校で行われるパーティー・ステージ、また地元で開催されるコンテストに次々出演。そのステージを観たアーティー・リップとカーマ・ストゥーラによって、1963年12月に「ザイモン・セッズ」をデモ・レコーディング(後にスマッシュ・レコードよりリリース、ベティがリード・ヴォーカル)。翌1964年初め「ウィッシング・ウェル/ヘイト・トゥ・セイ・・アイ・トールド・ユー・ソー」をレコーディングし、地元の小さなレーベル、スポーケン・レコードからリリースされる。因みにグループのメイン・リード・ヴォーカルはメアリーだが、この曲もベティがリードを取った。このレコーディング時まで彼女達はまだグループ名が無く、毎回適当な名前を付けていた。スポーケン・レコードが正式な名前を付けて欲しいと要望があり、クィーンズ地区で治安が比較的安全だったレストランでレコーディング契約書にサインをする時、彼女達はグループ名をザ・シャングリラスと定める。

 

 1964年、フィル・スペクターに憧れる若きプロデューサー、ジョージ・“シャドウ”・モートンは、たまたまザ・シャングリラスのステージを目撃する。白人の女の子達が黒人のようにパフォーマンスする姿に衝撃を受けたモートンは、すぐにブリル・ビルディングのソング・ライター、ジェフ・バリーを、彼女達のステージに無理やり連れて行った。当時ブリル・ビルディングが曲を手掛けていたガールズ・グループはザ・ロネッツ、ザ・シュレルズを始め全て黒人ガールズ・グループ。白人の女の子達が黒人ガールズ・グループのようにコーラスやシャウトするステージにジェフも圧倒される。こうしてザ・シャングリラスは1964年4月、モートンをプロデューサーに迎え、レッド・バード・レコードと契約。この時、ベティ17歳、メアリー15歳、双子のガンザー姉妹16歳。レコード会社との契約書には彼女達の両親がサインをした。

 最初のシングル「リメンバー(邦題:渚の思い出)」は1964年の夏の大ヒットとなり全米チャート5位、全英11位を記録した。当初この曲のレコーディングで、モートンはコダワリが強過ぎて7分超えの大作となってしまった。全米トップ40ラジオで7分超えの曲は長過ぎて掛けてもらえない。レコード会社は尺を2分台に短くしたヴァージョンをリリースしている(このレコーディングでピアノを弾いているのは、まだ無名の売れないセッション・マンだったビリー・ジョエル)。

 このモートンのコダワリは、続くシングル「リーダー・オブ・ザ・パック(邦題:黒いブーツでぶっ飛ばせ)」で成功を収める。モートンはスタジオのエコー・ルームにバイクを持ち込み、エンジン音、タイヤの軋む音、そしてガラスの炸裂音を録音し、フィル・スペクターばりの分厚いオーケストラにプラスした。メアリーの沈んだヴォーカルと“Look Out!”という叫びも相まって、瞬く間に全米1位を獲得。全英でも11位を記録(因みにイギリスでは1972年に3位、1978年に7位とリヴァイヴァル・ヒット)。この曲の大ヒットによって彼女達の人気は爆発、ビートルズ、ローリングストーンズ、ジェイムス・ブラウン等とジョイント・ツアーで全米を回る事になった。更に、ビートルズを始めとするブリティッシュ・ビート・グループをいち早くアメリカにもたらしたDJ、マレー・ザ・Kの企画するライヴ・ショーに1966年まで連続出演、化粧品会社レブロンのCM契約も取り付けた。余談だが、ジェイムス・ブラウンと共演した際、楽屋でシャングリラスのサウンドを聴いていたジェイムスは、楽屋に戻ってきた彼女達が白人だった事に驚き感動したという。

 実は「リーダー・オブ・ザ・パック」のプロモーションで1964年10月に渡英する直前、ベティはグループを離れていた。極度の舞台恐怖症説があるが、真相は当時ベティに子供が生まれ(父親は不明)、養育の為にグループを離れたのだ。これ以降、シャングリラスは3人で活動、テレビ番組【フラバル】、【シンディグ!】、【ハリウッド・ゴー・ゴー】は3人で出演、レコード・ジャケット等も3人になった。この為、シャングリラスは3人、というイメージが強く残ってしまったのである。

 

 その後も「ギヴン・ヒム・ア・グレート・ビッグ・キッス(邦題:がっちりキスしよう)」、「アウト・イン・ザ・ストリーツ」、「アイ・キャン・ネヴァー・ゴー・ホーム・エニモア(邦題:家には帰れない)」、「ロング・リヴ・アワ・ラヴ(邦題:涙の祈り)」等のヒット曲を連発、また全米各地でローカル・グループを前座にしたツアーを続け(この時の前座は若き日のイギー・ポップ、ソニックス等)、また大学でのフェスティバルにアニマルズ、ヤング・ラスカルズ、ヴァニラ・ファッジ等と共演を果たした。

 しかし、シャングリラスは英国での人気を保ちながらも、アメリカでの人気は、激化するベトナム戦争等時代の大きな変化と、それに伴うリスナーの音楽志向の変化によって徐々に衰えていく。1966年になると、リリースしたシングルはチャート上位に入る事はなくなった。シングル「パスト・プレゼント・アンド・フューチャー」を最後に彼女達はモートンと共にレッド・バード・レコードからマーキュリー・レコードに移籍する。多くのレコーディングを行いながらも、モートンは既にジャニス・イアン、ヴァニラ・ファッジを手掛けており、シャングリラスへの情熱は失われていた。最終的にシャングリラスは1968年に解散する。

 

 シャングリラスの魅力は、それまでのポップ・ミュージックにとってタブー視されてきたダークな部分にスポットを当てた楽曲だろう。孤独、死、抗争、性、etc。それまでのガールズ・グループ、特に白人のグループは、育ちの良さそうなお嬢様達が、夢のような楽しい日々を歌う事がフォーマットだった。「リーダー・オブ・ザ・パック」に代表される暴走族のボーイ・フレンドが事故死する、といった内容は、当時アメリカの無軌道なティーンの日常で起こりうる事であり、影の部分でもあった。モートンのフィル・スペクターを意識したキャッチーでポップなサウンドにのせて、リアルな日常をストレートに歌う同年代の女の子達:シャングリラスの登場に当時のティーンが共感した事は想像に難くない。

 更に“タフな女の子”を象徴するような黒を基調としたファッション。生い立ちでも述べたようにニューヨーク・クイーンズ地区の荒れ果てた町で育った彼女達は“ホンモノ”であったが故に、そういったファッション・センス、少々悪ぶった顔つきは普通の事だった(メアリーは護身用のピストルを常に所持していたと言われている)。“ワル”のイメージ、というよりも“本当のワル”で“タフ”だった彼女達の素養を最大限に引き出したプロデューサーのモートンも見事な見識だった。

 実質2年間の活動期間だったが、シャングリラスは後のミュージック・シーンに大いに影響を与えている。70年代パンク、またニューヨーク・ドールズ、エアロスミス、ツィステッド・シスターズを始め、彼女達の楽曲は多くのアーティスト、バンドがカヴァー、また、楽曲での大いなるヒントになっている。

 

 最後に、解散後のメンバー達のその後。

メアリーはグループ在籍中から通信教育を経て大学に進み、建築会社に勤めた後インテリア・デザイナーになった。姉のベティは現在ロングアイランドに在住。メリーアンは1970年ヘロイン過剰摂取で死亡。享年22歳。マージは学校に戻り、その後結婚したが1966年乳癌で死亡。享年48歳。

 

 まさに駆け抜けた、と言っても過言ではないザ・シャングリラス。今でこそ“ワル”、もしくは“ワル”っぽい雰囲気を売りにするアーティストは珍しくなくなったが、彼女達の創った“ワル”で“タフ”なイメージは、ミュージック・シーンのプロト・タイプとして現在も息づいている。

 

Text by 金子ヒロム