3分間の職人とビジネスマン/ミッキー・モスト

 

 若いリスナーの方には馴染みが薄いとは思うが、ロックンロールが誕生した1950年代から1960年代半ばまで、ミュージック・ビジネスのマテリアルはシングル・レコードが主流の時代だった。今年発売50周年を迎えたザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ』の商業的成功をキッカケにアルバムをメインとする時代になるのだが、それ以前はシングル・レコードをヒットさせる為に、シンガー、マネージメント、そしてレコード会社はしのぎを削っていた。

 ヒットを生み出すにはより多くのリスナーに楽曲を認知させる必要がある。当時最大のプロモーション・ツールはラジオであり、オン・エアに適した曲の長さは3分以内が理想だった。既にアメリカでは、ニューヨークのプリル・ビルディング系ソング・ライター達が作った楽曲を、フィル・スペクター等サウンド・プロデューサー達がスタジオで工夫を凝らし、収録時間3分以内に全てを盛り込むシステムが出来上がっていた。勿論、イギリスにもフィル・スペクターのようなプロデューサーが次々と出現する。最も有名なプロデューサーはビートルズをサウンド面で支え続けたジョージ・マーティン。そしてもう一人、忘れてはならないのが今回取り上げるミッキー・モストだ。元々演奏する側の人間だったモストは、プロデューサーに転身後、1960年代から70年代にかけて英国ロック・シーンに数多くのヒットを残している。

 

 ミッキー・モスト、本名:マイケル・ピーター・ヘイズは1938年、英ハンプシャーで英国陸軍軍曹の息子として生まれた。当時の一般的な英国のティーン・エイジャーと同様、10代でアメリカのロックンロールの洗礼を受けた彼は、15歳の時にロンドンのザ・ツーアイズ・コーヒー・バーでウェイターをしながらステージでも歌うようになっていた(このバーはヴィンス・テイラーがイギリスで最初に活動した場所でもある)。更にモストは、このバーの用心棒で、後に彼とタッグを組む事になるピーター・グラントと運命的な出会いを果たす。この時期のモストは、同じような若手シンガーのアレックス・マーレーとデュオを結成、デッカ・レコードと契約を結びシングルを1枚リリースしている(アレックス・マーレーは後にムーディー・ブルースの「ゴー・ナウ」をプロデュース)。

1959年、モストは南アフリカに渡り、初めて芸名としてミッキー・モストを名乗ってミッキー・モスト&ブレイボーイズを結成。このバンドはジーン・ヴィンセント、バディ・ホリー、エディ・コクラン等アメリカのロックンロール、ロカビリーのカヴァーを中心に演奏し、リリースしたシングルが11曲連続でチャート1位を記録。南アフリカの白人社会で圧倒的な人気を集めた。この成功を引っ提げロンドンに戻ったモストは、1963年にシングル「ミスター・ポーター」をリリースし、全英チャート45位を記録。続く「ザ・フェミニン・ルック」もチャート・インし、ミュージック・シーンにその存在を認知させた(「ザ・フェミン・ルック」のレコーディングにおいて、モストは当時駆け出しのギタリストだったジミー・ペイジを起用)。

 

 こうしてイギリスで成功の足掛かりを掴みかけたモストだったが、さっさとバンドを解散、第一線から退いてしまう。イギリスやヨーロッパ各地をツアーする中、毎晩同じ曲を同じように演奏する事に飽きてしまったのだ。そしてモストはミュージック・ビジネスから完全に引退はせず、違った面から関わる事を考えていた。まずモストはレコード店で働き始める。最初の仕事は店のレコード・ラックに表示ボードを付ける作業。彼はその中でヒットしている曲をジャンル問わず毎日チェックしていた。そして、巧みな営業力でレコード店でのアルバイトでありながら、コロムビア・レコードの新人スカウトを依頼されるようになる。

 モストはたまたま出掛けたニューキャッスルのクラブ・ア・ゴー・ゴーで演奏していたローカル・バンド、アニマルズを発見する。エリック・バードンのヴォーカルとクレイジーなステージングを目の当たりにしたモストは、彼等とプロデュース契約を結ぶ。アニマルズの野性的で黒いサウンドに可能性を見出したモストは、その特徴を殺さずにヒットさせる為、ポップ性をプラスする事を考えた。そしてニューヨークの作曲家でプロデューサーのバート・バーンズにデビュー曲の作曲を依頼する(バート・バーンズは「ツイスト&シャウト」、「渚のボード・ウォーク」、「エブリボディ・ニード・サムバディ・ラヴ」等のスタンダード曲を生み出し、後のブリル・ビルディングのソング・ライター達に影響を与えた)。こうして完成したアニマルズのデビュー・シングル「ベイビー・レット・ミー・テイク・ユー・ホーム」は全英チャート21位を記録。一度結果を出した事で、モストは次にバンド本来の特徴を打ち出す方向に切り替え、1964年の大ヒット「朝日のあたる家」でアニマルズを世界的なバンドに押し上げた(この大ヒットによってモストは1964年のグラミー賞でプロデューサー・オブ・ザ・イヤー賞を受賞)。

 プロデューサーとして名前の売れ始めたモストは、今度はマンチェスター出身のバンド、ハーマンズ・ハーミッツとプロデュース契約を結ぶ。すぐにグループのアイドル的要素を見出したモストは、ワイルドさを伴うブリティッシュ・ビート感を無理に出さず、アメリカン・ポップスのキャッチーさを取り入れる事を考えた。そしてプリル・ビルディングの黄金ソング・ライティング・コンビ、ゲリー・ゴフィン&キャロル・キングに曲を依頼、出来上がったファースト・シングル「アイム・イントゥ・サムシング・グッド」は1964年に見事チャート1位を獲得する。更に彼等のシングル、アルバムは一年で1,000万ユニットという驚異的なセールスを記録、ハーマンズ・ハーミッツはアメリカでもビートルズに匹敵する人気を得る事に成功した。

 更にモストは、アメリカのアイドル・シンガーで、英国進出を目論むブレンダ・リーをプロデュース。今度はブリティッシュ・ミュージック・シーンを意識して、当時の英国ポップスのトップ・ソング・ライティング・コンビ、ジョン・カーター&ケン・ルイスに作曲を依頼、1964年、当時としては珍しいマキシ・シングル「イズ・イット・トゥルー/ホワッド・アイ・セイ(レイ・チャールズ)/ジャスト・ビハインド・ザ・レインボウ」をリリースし大ヒットを記録している(このシングルでのギターもジミー・ペイジ)。

 こうしてヒット・メーカーとしての地位を不動の物としたモストは、ドノバンの「メロー・イエロー」、「ハーディー・ガーディー・マン」、ルルの「ザ・ボート・ザット・アイ・ロウ」、ザ・シーカーズの「デイズ・オブ・マイ・ライフ」、ナンシー・シナトラの「ザ・ハイウェイ・ソング」等次々とヒット曲をプロデュースしていく。

 

 しかし、モストのプロデュース・スタイルは時代とともに崩れていく。ビートルズ『サージェント・ペパーズ』がリリースされた1967年、モストは友人ピーター・グラントがマネージメントしていたザ・ヤードバーズのアルバム『リトル・ゲームス』をプロデュースする。このアルバムはジミー・ペイジが全面参加していたが、モストはいつも通りのサウンドを目指し、収録曲を3分間以内に収めてしまった。このサウンド・プロデュースにバンド側から不満が噴出、更に商業的にも大失敗に終わる。モストはこの失敗により、バンドがよりアート性を求め、表現するアーティストの時代に入った事、そして何よりリスナーが求めるサウンドが大きく変化した事によって、自らのスタイル、3分間の時代が終わった事を悟った。

 だがモストは負けなかった。モストはプロデューサー業から一旦離れ、ピーター・グラントと共に新しいミュージック・ビジネスを始める。1969年、自らのレーベルであるRAKレコード、そしてRAK音楽出版をスタート。そしてグラントはザ・ヤードバーズを経て新たに結成されたレッド・ツェッペリンのマネージメントを手掛けるようになる。モスト子飼いのミュージシャン、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズのレッド・ツェッペリンとグラントを、モストが結び付けたのだ。新事業のRAKレコードはフォーク歌手ジュリー・フェリックスと契約、またRAK音楽出版はポピュラー・ソングの著作権を数多く保有する事に成功する(因みにRAKという名称は、モストがレコード店で働いていた時に表示版を付けたレコード・ラックに起因している)。

 プロデューサー業からビジネスにシフトしていたモストに、アップル・レコードのメリー・ホプキンからプロデュースの依頼が舞い込む。彼の手掛けた1970年のシングル「夢見る港」は全英チャート6位、続く「しあわせの扉」は2位を記録(同曲はユーロビジョン・ソング・コンテストで2位に入賞)。再びプロデューサーの勘を取り戻し始めたモストは、プロデュースの依頼を受けたジェフ・ベックのレコーディングに立ち会う為、デトロイトを訪れる。彼はそこでダンスホールのステージで歌っていたスージー・クアトロを発見、彼女とレコーディング契約を結んだ。そしてハードなサウンドが流行し始めている事に着目、イメージ戦略チームを雇い、ニッキー・チンとマイク・チャップマンのコンビに作曲を依頼、「キャン・ザ・キャン」、「悪魔とドライヴ」等のヒット曲を生み出した。スージー・クアトロ以後、RAKレコードのアーティストストはアレクシス・コーナー、アロウズ、スモーキー、クリス・ノーマン、ホット・チョコレート、アンジー・ミラー、クリス・スペディング等一気に増えていった。

 甦ったモストはメディアにも進出。ITVの新人発掘番組「ニュー・フェイス」にパネリストとして出演、また番組プロデューサーとしてパンク・ロック専門番組「レヴォルヴァー」を始めている(モストは番組の初回、ゲストとしてケイト・ブッシュへ出演を依頼している)。更に1980年代にはキム・ワイルドを発掘している。こうしてミッキー・モストはイギリスのミュージック・ビジネスにおいて最も成功し、長年に渡って英国長者番付にランク・インし続けた初めてのプロデューサーとなったのだ。

 

 改めて彼の手掛けた多くのヒット曲を聴き直してみると、3分間という短時間で決して平坦にならず、起承転結が見事に盛り込まれている。これこそまさに3分間の職人技だ。しかし、腕の良い職人技だけでは、ここまでの成功は築くのは困難だ。そこでプロデューサーになるまでの3つの行動も改めて検証してみる。

 

1.なぜ南アメリカに行ったのか?

2.演奏活動をあっさり辞めたのか?

3.レコード店でアルバイトを始めたのか?

 

 当時の南アフリカは白人の大きなマーケットがありながらロックンロール未開の地であり、パイオニアとして成功する確率が高かった。次に、単調な演奏活動に刺激を感じられなくなった事もあるが、ビートルズが登場したイギリスにおいてロックンロール・カヴァーだけでは限界を感じたのだろう。また当時のレコード店は日々新しいサウンド、情報が入るトレンド・スポットであり、そこで自らの感覚、アンテナを養う必要を感じたと考えられる。そうイメージしていくと彼の行動は突飛ではあるが、一本の線で繋がっていく。

 1960年代イギリスに現れたプロデューサー達は、音楽博士か、ビジネスマンのどちらだった。しかしミッキー・モストという人物は、職人気質とリアリストなビジネス感覚、職人技と商才という相反する才能を併せ持った初のプロデューサーなのだ。

 

 最後に、モストのもう一つの功績を挙げておく。モストは才能ある若手ミュージシャン達に活躍の場を与え続けた。プロデュースした作品にジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ニッキー・ホプキンスといった当時無名の若手セッション・ミュージシャンを起用、トップ・ミュージシャンに育て上げている。しかしモストの恩恵を受けた彼等が3分間に収まらない音楽をやり始めた事は、時代の皮肉だろう。

 

Text by 金子ヒロム