自らを貫き成功したダスティ・スプリングフィールド


  プロデューサーなる人物によって、衣装、メイク、ヘア・スタイルに至るまでのコンセプトを決められ、用意された楽曲を歌う。

 かつてシンガーのデビュー時はそうしたアクションが主流だった。特に女性シンガーの場合アイドルとして売り出すケースが多く、そういった被プロデュースがより顕著だった。近年は殆どのシンガー、アーティストがデビュー時に自らのアイデアを盛り込める権利を得るようになってきているが、未だショービズの世界では“歌う人形”に仕立てる業が根強く残っている。

 シンガーが自らの考え、意見を反映させる事が困難だった1960年代初頭、自分の意志を貫き成功を収めた最初の女性シンガーがイギリスに現れた。耳に残る独特のメゾ・ソプラノで女性初のブルー・アイド・ソウル・シンガーとなり、それまでのシンガー=アイドルという図式を吹き飛ばしたダスティ・スプリングフィールドだ。彼女は自らをプロデュースするという新しい潮流をショービズ界にもたらしたパイオニアでもあった。

 

 1939年、ダスティは英領インドで育った税理士の父とアイルランド出身の母との間、ウエストハムステッドで生まれた。一家は典型的な中産階級、音楽好きの父親はジョージ・ガーシュウィンやコール・ポーター、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、そしてグレン・ミラーのレコードを掛けながら、ダスティと兄のトムに“英才教育”を施した。ダスティはジャズ・シンガーに夢中になり、次第にペギー・リーのような歌手になりたいと考えるようになる。

 1957年、学校を卒業したダスティはキャンプ場でアルバイトしながら地元のフォーク・クラブでトムと歌うようになっていた。ある日、フォーク・クラブで何気なく手にした音楽雑誌の[女性コーラス・グループ・メンバー募集]という広告に目を留めたダスティは、軽い気持ちで応募、見事オーディションを通過する。翌1958年、ダスティはプロデューサーによって“シャン”という芸名をつけられ、髪型を変えられ、それまで掛けていた眼鏡を外されて、ポップ・ガールズ・トリオ、ラナ・シスターズのメンバーとしてデビュー。最初は憧れのプロ・シンガーに仲間入りできた事を喜んでいたダスティだったが、作曲家が用意した自分の好みではない楽曲をレコーディングし、愛嬌を振り撒きながら歌う毎日に、持っていたプロ・シンガーのイメージとの違和感を持つ。そんな中でもダスティは“何か”を掴もうと、ヨーロッパ各地の米軍基地で慰問ショーを重ねながら、コーラス・ワークや、マイクを使ったパフォーマンスの研究を重ねていった。

 

 1960年、2年間に及ぶ修行のような生活を終えたダスティはラナ・シスターズを脱退。次のチャンスを探っていた彼女に兄のトムが声を掛ける。リハーサルを重ねたダスティとトムは、フォーク・グループ、ケンジントン・スクエアズのメンバーだったレサード・フィールドと共にフォーク・トリオ、スプリングフィールズを結成。既にアメリカではフォーク・ソングがパワーを持っている事を知っていたトムは、リアルなフォークのアルバムを作る為、ナッシュビルでのレコーディングを敢行。アメリカン・フォーク・サウンドを打ち出したスプリングフィールズは英国版PPMとして人気を集め、英NME誌人気投票で1961年から1963年まで上位に常にランク・インする程になっていった。1963年「セイ・アイ・ウォント・ビー・ゼア」が全英チャート5位を記録、当時スタートしたばかりの音楽番組【レディ・ステディー・ゴー!】にも出演を果たす。

 しかし、ダスティの頭の中は既に別の音楽が鳴っていた。それは訪れたアメリカでダスティが耳にし、衝撃を受けた黒人音楽、モータウンを始めとするガールズ・グループ、ヴォーカル・グループの歌うR&B。このままフォークを歌い続け、英国版PPM、英国版ジョーン・バエズでいる事は自分にとって違う、と感じたダスティは1963年10月のライヴを最後に脱退、スプリングフィールズも解散となる(兄のトムはその後もコンポーザー活動を続け、オーストラリアのフォーク・グループ、ザ・シーカーズのヒット曲「アイル・ネヴァー・ファインド・アナザー・ユー」、「カーニヴァル・イズ・オーヴァー」を始め数多くの楽曲を作曲、またダスティにも楽曲提供を行っている)。

 11月、ダスティはシングル「アイ・オンリー・ウォント・ビー・ウィズ・ユー(邦題:二人だけのデート)」でソロ・デビュー。アイヴァル・レイモンドとの共作となったこの曲で、ダスティはサウンド・プロデューサーのジョニー・フランツに対しR&B、特にガールズ・グループで彼女のお気に入りだったエキサイターズやシュレルズのようなサウンドをリクエストした。ダスティからの様々なアイデアを取り入れたジョニー・フランツはR&B独特のグルーヴィーなリズムをベースに、フィル・スペクター張りの分厚いサウンドに仕上げ、更に、当時ビートルズが試していたヴォーカルのダブル・トラック・レコーディング等最新技術も取り入れた。チャート・アクションは全英4位まで上昇、またアメリカでは、ニューヨークのラジオ局WABCの人気DJ、ダン・ダニエルがリリース直前にパワー・プレイし全米チャートで10週に渡ってチャート・イン、最高位48位を記録する。アメリカン・チャートにおいてビートルズよりも早く初の英国シンガーによるヒットとなった。因みにダン・ダニエルやマレー・ザ・K等、当時のアメリカン・ラジオDJ達の多くはイギリスでビートルズが大人気になっている事、それに続くビートグループが数多く活躍しているという情報を既にキャッチ、ブリティッシュ・インベンションを予測していた。

 翌1964年の元旦、ダスティは国民的音楽番組【トップ・オブ・ザ・ポップス】に出演し「アイ・オンリー・ウォント・ビー~」を歌った。ブラウン管に現れたダスティは、スプリングフィールズ時代から一変、ブロンドの髪をモータウンのガールズ・グループのように大きく巻き上げ、シュプリームスのダイアナ・ロスやロネッツのロニー・スペクターのような濃いアイ・メイクを施し、それまでの白人女性シンガーがやった事の無いスタイルで現れた。当時のイギリスにおいて衝撃的なルックスと、ラナ・シスターズ時代に鍛えたスマートなマイク・パフォーマンスで歌うダスティは、一夜にして60年代の英国を代表する女性シンガー、そしてスウィンギング・ロンドンのアイコンとなった。同年4月にリリースしたデビュー・アルバム『ア・ガール・コールド・ダスティ』はチャート6位。このアルバムもダスティのアイデアが強く反映、彼女のオリジナル曲も収録されたアルバムとなり、1964年NME誌年間人気投票の女性アーティスト部門でシラ・ブラック、ルル、サンディー・ショウ等を大きく引き離し1位を獲得、以後1966年まで3年間トップに君臨する。1965年1月、ダスティはイタリアのサン・レモ音楽祭にエントリー、準決勝に進出。フランク・シナトラ等ビッグ・ネームに一切引けを取らないパフォーマンスは、英米だけでなく世界にその存在をアピールした。

 

 サン・レモから帰国したダスティは、すぐに次のプロジェクトに取り掛かる。それは彼女が影響を受けたR&B、本物のモータウン・ミュージックの凄さをイギリスのオーディエンスに伝える事だった。4月、人気音楽番組【レディ・ステディー・ゴー!/モータウン・スペシャル】が放送される。この番組にはザ・テンプテーションズ、ザ・シュプリームス、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ、マーサ&バンデラス、そしてスティーヴィー・ワンダー(リトル・スティーヴィー時代)が一挙に出演。その仕掛け人がダスティだった。彼女はこの番組の企画・プロデュースから司会進行までをこなし、モータウン・ミュージックのイギリスへの進出を大いにアシストしたのだ。既にビートルズを始めとするブリティッシュ・ビートグループ、特にリヴァプール勢はモータウンの影響を受け、多くのカヴァーをリリースしていた。しかし、それはもう一つの影響:ロックンロールの爆発的なサウンドをミクスチャーし、新しいサウンドになっているものだった。ダスティはそうした流れを否定せず、純粋なルーツ・ミュージックとしてのモータウンの凄さを一般のオーディエンスに伝えたかったのだ。更にダスティはザ・シュプリームス、ザ・ミラクルズ、スティーヴィー・ワンダー等と共に、モータウン・レビューという全英ツアーを展開していく。こうしたダスティのプロデュース能力は、後に1967年から始まる彼女の企画・プロデュース&司会の音楽バラエティ番組【ダスティ】で、より発揮される事になる(同番組は後にジミ・ヘンドリックスも出演)。

 

 ダスティのR&Bに掛ける熱い思いは彼女を次の段階に押し上げる。1968年、ソウルの名門アトランティック・レコードと契約、メンフィスに赴きソウル・アルバムのレコーディングに取り掛かった。『ダスティ・イン・メンフィス』と題したこのアルバムは1969年にリリース、英米ともに音楽誌による評価は素晴らしく、同年の各音楽誌年間ベスト・アルバム女性部門においてトップを記録したが、チャート・アクションは芳しくはなかった。音楽の主流が、ダスティの意図するサウンドは既に時代遅れとなっていったからだった。

 1970年代にダスティの人気は下降し、ヒットに恵まれない時代が続くようになるが、1986年にペット・ショップ・ボーイズによって“発掘”される。彼等との共作「とどかぬ想い」が全米・全英で大ヒットを記録、復活を遂げたダスティは、以後1999年に癌で亡くなるまで、彼等との共作、また自らの作品のリリースを続けた。

時代遅れとなっていたダスティは何故シーンに戻れたのか?ペット・ショップ・ボーイズは、かつてダスティがイギリスに広めたR&B、モータウンのマニアであり、彼女の楽曲の影響を受けていた。また、英国初の女性ブルー・アイド・ソウル・シンガーであり、ノーザン・ソウル、所謂イギリスで始まったソウルのパイオニアの一人であるダスティをリスペクトするアーティストが、1970年代後半からエルヴィス・コステロを始め次々とシーンに現れた事も大きい。ダスティは自らを貫いた事によって多くのフォロワーを生み出していたのだ。

 女性シンガーにとって困難な時代、ダスティ・スプリングフィールドは、ソウル・シンガーとしての評価は勿論、自らを貫き、見事に“脱アイドル”に成功した初の女性アーティストとしても評価される存在である事は間違いない。

 

 最後に、彼女のパイオニアぶりを伺わせるエピソードをもう一つ。

 1964年の年末に行われた南アフリカでのツアーにおいて、ダスティはアパルトヘイト政策に反し、ケープタウンの劇場で“統合”されたオーディエンスの前で演奏、終演後にバック・バンドと共に強制的に国外退去を命じられた。帰国後、その一件に関しダスティは“みんな私の音楽を聴きにきている。肌の色は関係ない”と発言。またプロモーターも契約段階で、人種差別する都市、会場での公演はダスティの意思で全て外した事、どうしてもダスティを観たい白人は“統合”された会場に行くしかないツアーだった事を明かしている。黒人音楽に影響を受けて変身したダスティは、アパルトヘイトに対する行動を起こした初の英国人アーティストでもあったのだ。

 

Text by 金子ヒロム