英国初のロックンローラー/ヴィンス・テイラー


 

 ビートルズがデビューする前のハンブルグ時代、何故リーゼントに皮ジャンのスタイルだったのか?ジーン・ヴィンセントのスタイルを真似たのか、それとも映画【ザ・ワイルド・ワン(邦題:乱暴者)】のマーロン・ブランドのスタイルに影響されたのか。その理由としてロックンロールとアメリカの文化に感化された事は充分考えられる。しかし、ビートルズ登場以前に活躍した英国初のロックンローラー、ヴィンス・テイラーの影響がチラついている事も否定できない。

 マニアの方には、後に多くのカヴァー・ヴァージョンを生み出したロックンロール・スタンダード・ナンバー「ブランド・ニュー・キャデラック」の作曲者として知られるヴィンス・テイラー。彼はテレビという当時最新のメディアを使って、英国のミュージック・シーンに、ロックンロールを身近な音楽にしたパイオニアでありながら、クレイジーなパフォーマンスと共に薬物中毒でアルコール中毒、セックス・ピストルズの登場よりも20年近く早い英国初の破滅型パンク・ロック・スターでもあるのだ。

 

 ヴィンス・テイラーは1939年英ミドルセックス州アイルワースに生まれた。第二次大戦終結後の翌年、ヴィンスが7歳の時、彼の一家は景気がドン底だったイギリスを離れアメリカに移住、ニュージャージーで暮らし始める。1955年、ヴィンスの姉シェーラが、アニメ【トムとジェリー】で成功を収めたアニメーション会社ハンナ・バーバラのジョー・バーバラと出会い結婚。姉が玉の輿に乗ったおかげで、ヴィンス一家は西海岸のカリフォルニア州ロスアンゼルスに引っ越す事になる。ヴィンスはハリウッド高校に通い、気象や工学を専門的に学びながら飛行機の操縦をマスター、パイロットの免許を取得した。彼の当時の夢はジェット機のパイロットだった。

 しかし、18歳の時、エルヴィス、ビル・ヘイリー、そしてジーン・ヴィンセントのサウンドに出会ったヴィンスは、音楽の道に向かい始める。最初は高校のダンス・パーティーやプロム、アマチュア・コンサートで歌い、次にローカル・バンドをバックにハリウッド近辺のナイト・クラブに出演するようになっていった。その姿に義理の兄となったジョー・バーバラは可能性を感じていた。

 1957年、アニメの仕事でロンドンに行ったジョーが、たまたまレコード店を訪れた際、アメリカのロックンロールが英国ミュージック・シーンを席巻している様子を目撃する。ビジネスの匂いを感じたジョーは帰国するとヴィンスのマネージャーを買って出て、翌年彼をロンドンに連れて行く。ロンドン・ソーホーのコーヒー・バーで、ジョーの手配で集まったメンバー達とヴィンスによって、ヴィンス・テイラー&ザ・プレイボーイズが結成される(因みにヴィンスの本名はブライアン・モーリス・ホールデン。ヴィンス・テイラーは芸名であり、その由来は、コーヒー・バーでのミーティングの際、メンバーが吸っていたタバコ:Pall Mallのパッケージに印字されている“In hoc Vince‘s”というフレーズと、本人が俳優ロバート・テイラーのファンだった事をミックスして命名された)。

 

 1958年、ヴィンス達はシェファード・ブッシュ・ガウモントでステージ・デビュー、同年11月にEMI系のレーベル、パルフォーンと短期契約、すぐにシングル「アイ・ライク・ラヴ/ライト・ビハインド・ユー・ベイビー」をリリース。その年末にはクリフ・リチャードのリーガル・コルチェスター公演で、喉を痛めたクリフ・リチャードに代わりヴィンス達が演奏、それを目撃したテレビ・プロデューサーのジャック・グッドは新しいミュージシャン達を発掘する音楽番組【オー・ボーイ】にヴィンス達を出演させる。しかしジャック・グッドから、次の出演時には髪を切って欲しいとリクエストされたヴィンスは次回以降の出演を断る(ハンブルグ時代のビートルズと共演するトニー・シェリダンもこの番組に出演している)。

 翌1959年4月、2ケ月に及ぶイングランド・ツアーを終えたヴィンス達は2枚目のシングル「プレッジン・マイ・ラヴ/ブランド・ニュー・キャデラック」をリリースする。ヴィンスのオリジナル曲はB面での発売だった(因みにA面はジョニー・エースの曲とは同名異曲。またこのシングルでギターを弾いているのは、ジョニー・キッド&ザ・パイレーツの名曲「シェイキン・オール・オーヴァー」で印象的なスライド・ギターを弾いたミュージシャンのジョー・モレッティ)。しかし、売上は芳しくなく、パルフォーンから契約を打ち切られる。ヴィンス達はパレット・レコードに移籍するが、その後「ブランド・ニュー・キャデラック」だけが徐々に人気を得る。“キャデラック”という特定の商品名が、当時のBBCの規定に引っ掛かり、放送禁止処分を受け事が原因と言われている。

 1960年4月、ABCは新しいロックンロールを紹介するテレビ音楽番組【Wham!】のレギュラーにヴィンス達を据えて放送を開始した。黒いレザー・ジャケットに身を包みリーゼント・ヘア、首にチェーン・アクセサリーを巻いたヴィンスは、同じく全身黒い衣装で固めたプレイボーイズが繰り出す激しいビートに併せ、マイク・スタンドを掴みながらまるで壊れたオモチャのようなパフォーマンスを魅せた。テレビから突然現れたヴィンス達の姿に当時のイギリスのティーン達は衝撃を受ける。番組出演と共にヴィンス達はアメリカからやってきたエディ・コクランとジーン・ヴィンセントの英国ツアーをサポートを務めた。こうして英国初のロックンローラーとして人気が急上昇、8月には三枚目のシングル「アイル・ビー・ユア・ヒーロー/ジェット・ブラック・マシーン」をリリースする。

しかし、ヴィンスとプレイボーイズのメンバーの間には、常に緊張と軋轢が付き纏っていた。ヴィンスがステージで魅せるパフォーマンスは、今までに無い新しくダイナミックなモノではあったが、ステージの演奏自体を壊しかねないギリギリのモノだった。またヴィンス自身の私生活も滅茶苦茶になり、ステージに穴を空ける事も頻繁に起きていた。事態はプレイボーイズのメンバーがヴィンスを解雇し、バンド名もヴィンス・テイラー&ザ・プレイボーイズ改めドラムのボビー・クラークがリーダーとなってボビー・クラーク・ノイズと変更してしまう。1961年パリ・オランピア劇場公演の契約もボビー・クラーク・ノイズ名義になった。主導権をバック・バンドに握られたヴィンスは1961年から翌1962年にかけてボビー・クラーク・ノイズと共に、フランス、西ドイツ、オランダ、イタリア、スペインでヨーロッパ・ツアーを行う(実際はヴィンス・テイラー&ザ・プレイボーイズとして各地で出演している)。迎えた1962年の年末、ツアー・ファイナルはパリ・オランピア劇場でシルヴィ・ヴァルタンをオープニング・アクトに据えて行われている。当時如何にヴィンス達がヨーロッパで圧倒的な人気を誇っていたのか理解できるブッキングだ。またバークレー・レコードと契約、ツアーの合間にパリのスタジオでアルバム、EPをレコーディング、ヨーロッパ各地でリリースし続けた。

 

 しかし、長期ツアーを終えてイギリスに戻ったヴィンス達に居場所はなくなっていた。皮ジャン・リーゼントを止めてマッシュルーム・カットにスーツを着たビートルズを始めとするビート・グループが取って変わっていた。ヴィンス達は再びパリに戻り1964年までレコーディングとツアーを続けたが、メンバーも頻繁に入れ替わり最終的にバンドは解散する。ヴィンスは重度の薬物中毒、アルコール中毒に陥入、更にそこから脱するため宗教活動を始めてしまう。ソロ・ステージで、歌の間に宗教の話をするヴィンスに、オーディエンスは演出だと思っていたそうだ。こうして徐々にヴィンスはシーンから遠ざかっていった。一方メンバーだったボビー・クラークはノイズを再構築、ギタリストにラルフ・ダンクス(後にスリー・ドック・ナイト)、パーカッションにスタッシュ・クロワスキー(後にダーディー・ストレンジャーズ)等を加え、1965年にはローリング・ストーンズとパリ・オランピア公演で共演するまでになっていた。その後もフランク・ザッパ、スティーヴ・ハウ等と共演したボビーは、長年の仲間だったヴィンスの窮状を見かね、1969年にレ・ロッカーズとしてヴィンスをもう一度ステージに立たせる。また、唯一、パフォーマンスだけでなく、ヴィンスの楽曲の良さを認めていたバークレー・レコードのエディ・バークレイも、同年秋からフランスで始まったヴィンス・テイラー支援キャンペーンをバックアップ。ヴィンスをもう一度パリのスタジオに呼び戻しレコーディングを行っている。しかし、そうした動きもフランス等ヨーロッパ一部地域での事、本国イギリスまでには及ぶ事はなかった。

ヴィンスはスイスのローザンヌで飛行機の整備士をしながら晩年を過ごし、1991年8月25日、癌で死亡。享年52歳。

 

 ヴィンス・テイラー&ザ・プレイボーイズとしての実質の活動期間は1958年から1964年までの6年間。ヨーロッパ各地で絶大な人気を得た反面、本国イギリスでは忘れられた存在と思われてきたが、デヴィッド・ボウイの1972年ジギー・スターダスト・ツアーで、ジギー・スターダストのキャラクター・イメージはヴィンスである事が判明する。また、ヴァン・モリソンは1999年にリリースしたナンバー「ゴーイン・ダウン・ジェノヴァ」でヴィンス・テイラーという固有名詞と共に、彼への憧れを歌っている。1980年代のニュー・ウェーヴ・アーティスト、アダム・アントもヴィンス・テイラーへの憧れから、2013年のアルバム『アダム・アント・アズ・ザ・ブルーブラック・フッサー』に、「ヴィンス・テイラー」というズバリのタイトルのナンバーを収録、また2011年のツアーではヴィンスのナンバー「ロックンロール・ステーション」を演奏している。そして御存知の通り、1979年にリリースされたクラッシュのアルバム『ロンドン・コーリング』にはヴィンスの「ブランド・ニュー・キャデラック」がカヴァー収録されている(同曲はブライアン・セッツアーも自らのオーケストラでカヴァー)。生前ヴィンスはラジオから流れてきたクラッシュの「ブランド・ニュー・キャデラック」を聴いて、自分のヴァージョンと勘違いし、思わず“BBCの規則は変わったのか?”と呟いたという。

 皮ジャンでリーゼントのヴィンスがテレビでクレイジーなパフォーマンスを魅せた時、ジョンとポールはピンときたかもしれない。多くの潜在的なフォロワーを産んだヴィンス・テイラー。英国初の国産ロックンローラー、そしてパンク・ロック・スターとして歴史に刻まれるべき存在である事は間違いない。

 

Text by 金子ヒロム