もう一つのR&B/ザ・コースターズとリバー&ストーラー


 1960年代に次々とデビューしたブリティッシュ・ビートグループ達は、その殆どがアメリカからやってきたブルース、R&B等の黒人音楽に多大な影響を受けてきた事はご存知の通りだ。

 まず、憧れの地、シカゴからやってきたチェス・レコードのブルース・マン達とチャック・ベリー。

そして、デトロイトからやってきたベリー・ゴーディ率いる黒人初のメジャー・レーベル、モータウン・レコードのアーティスト達とブライアン・ホランド、ラモント・ドジャーの作った楽曲。

 この二つの大きな流れは、このコラムでも折りに付け触れる機会が多いので、今回、敢えて触れないが、実はもう一つ、ブリティッシュ・ビートグループ達に影響を与えた、忘れてはならない黒人音楽がある。それが今回取り上げるドゥ・ワップのアウトサイダーと呼ばれたコーラス・グループ、ザ・コースターズ。そして彼等の楽曲を手掛けたジェリー・リバー、マイク・ストーラーの有名ソングライター・コンビだ。ザ・コースターズは日本に於いての知名度は、シカゴやデトロイトのアーティストにやや劣っているが、1950年代から1960年代にかけてのロックの歴史において、その特異なサウンドはしっかりと刻まれている。

 

 ザ・コースターズの歴史は1949年頃から西海岸ロスアンゼルスのクラブで歌っていたカール・ガードナーとボビー・ナンによって結成された黒人コーラス・グループ、ザ・ロビンスから始まる。オリジナル・メンバーははガードナー、ナンの他ビリー・ガイ、レオン・ヒューズ、レコーディングだけに参加していたヤング・ジェシー、そしてギタリストのアドルフ・ジェイコブス。ザ・ロビンスとして活動を開始し始めた1953年、手掛けた楽曲「ハウンド・ドッグ」(ビッグ・ママ・ソーントン)、「カンザス・シティー」(リトル・ウィリー・リトルフィールド)のヒットで当時新進気鋭のソング・ライター・コンビのジェリー・リバーとマイク・スートラーはスパーク・レコードを立ち上げたばかりで新人歌手を探していた。たまたまザ・ロビンスのステージを観た二人はすぐに彼等と契約、1954年にシングル「ライオット・イン・セル・ブロック #9」でデビューする。その後も「ループ・デ・ループ・マンボ」、「ワン・キッス」等、それまでのブルース、R&B的なアプローチとは一味違うラテン系リズムを取り入れた曲を次々と発表。既に楽曲・アレンジにおいて他の黒人アーティストとの違いを備えていたザ・ロビンスとリバー&ストーラーは、6枚目のシングルで彼等の自信作「スモーキー・ジョー‘ズ・カフェ」を1955年にリリースする。これが大手レコード会社、アトランティック・レコードの目に留まり、ザ・ロビンスとリバー&ストラーのコンビは、そっくりそのままアトランティック・レコードと契約、グループ名もコースターズと改め、彼等はニューヨークに移住する。

 

 1956年にリリースされたザ・コースターズ最初のシングル「ダウン・イン・メキシコ」はR&Bチャートでヒット、翌1957年3枚目のシングルで両A面「ヤング・ブラッド/サーチン」はR&Bチャートで13週チャート・インという同年R&Bチャート最大のヒット曲になり、「サーチン」は全米ポップ・チャートでもトップ10入りを果たす大ヒットとなった。

 そして1958年彼等の最大のヒットとなる「ヤケティ・ヤック」がリリースされる。後に”五人目のコースターズ”と呼ばれたキング・カーティスのテナー・サックスをフューチャーしたこのナンバー、遂にR&Bチャートのアクションを上回り、全米チャートで1位を獲得。続くシングル「チャーリー・ブラウン」も全米・R&Bチャート共に2位、「アロング・ケイム・ジョーンズ/ザット・イズ・ロックンロール」、「ポイズン・アイビー」(R&Bチャートで2ヶ月連続1位)とヒット曲を連発した。

 

 しかし1961年のシングル「リトル・エジプト」を最後に、まるでその役目を終えたかのようにヒット・チャートに顔を出す機会が激減していく。流れに逆らうアトランティック・レコードは迷走、ライヴ時にヴァーノン・ハレル、ドゥ・ワップ・グループ、ザ・キャデラックスのアール・キャロル、ジョニー・シンバルのヒット曲「ミスター・ベース・マン」のベース・ヴォイスで知られるロニー・ブライト、新ギタリストとしてトーマス・パーマー等、次々とメンバーを加入させたが、どれも失敗に終わる。1966年、アトランティック・レコードとの契約を終えたザ・コースターズはコロムビア・レコードに移籍、そこでリバー&ストーラーと再び手を組むが、メンバー・チェンジによってガタガタになっていたザ・コースターズに以前の輝きを取り戻すパワーはもう残っていなかった。唯一、1971年にリリースされた「ラヴ・ポーション・ナンバー9」がスマッシュ・ヒットを記録している(この曲はリバー&ストラーが元々ザ・コースターズの為に作った曲だったが、当時のアトランティック・レコード所属のドゥ・ワップ・グループ、ザ・クローバーズが1959年にレコーディングしてヒット、後にブリティッシュ・ビートグループのザ・サーチャーズが1963年に大ヒットさせている)。

 

 オリジナル・メンバーでギタリストのアドルフ・ジェイコブスの脱退やビリー・ガイのソロ活動、ガードナー、ナンと他メンバーとの軋轢(これが元になって、後に短期間でも在籍経験のあるメンバーが次々とザ・コースターズを名乗って活動を始める事になる)、そして時代が白人によるアメリカン・ポップスに傾いていった事等、ザ・コースターズが失速した理由は幾つか考えられるが、最大の原因はリバー&ストーラーがアトランティック・レコードから離れてしまった事だろう。デビュー前からの彼等を熟知、R&B特有の泥臭さを残しながら西海岸らしい陽気でコミカルなアレンジ、そして当時としては珍しかったストーリー性を持たせた歌詞(童話にヒントを得てそのスタイルを思いついた、と言われている)。こうしたザ・コースターズ独自のサウンドは、メンバーとリバー&ストーラーとの絶妙なコンビネーションによって成り立つものだったのだ。

 しかし、シカゴやデトロイトとは違った魅力を持つザ・コースターズ・サウンドは、大西洋を挟んだ向こう側、イギリスでフォロワーを産み出していた。デビュー前のビートルズは、ザ・コースターズの楽曲を数多くレパートリーにしていた。またホリーズ最初のヒットは「エイント・ザット・ジャスト・ライク・ミー」と「サーチン」。シカゴ・サウンド一辺倒だったローリングストーンズ、またプロコル・ハルムの前身、パラマウンツは「ポイズン・アイビー」をレコーディング。70年代にはドクター・フィールグッドが1975年リリースのアルバム『不正療法』でザ・ロビンスの「ライオット・イン・セル・ブロック #9」をカヴァー。その他多くのブリティッシュ・ビートグループは挙ってザ・コースターズのナンバーを盛んに取り上げるようになっていたのだ。ブルース、R&B等黒人音楽に目覚めた当時のイギリスのティーン達にとって、ザ・コースターズのどこかコミカルで、つい聴き入ってしまうサウンドは、本流のシカゴ、デトロイトとは別の魅力、タダのドゥ・ワップとも違う、何かワクワクするような雰囲気を感じたのだろう。

 因みにフィル・スペクターはリバー&ストーラーのコンビが作るサウンドに憧れ、彼等の下スタッフとして働いていた。それが後にロネッツ他多くのガールズ・グループのサウンドに影響を与えた。またザ・コースターズの活動本拠地だったニューヨークにおいても、ソング・ライティング・チーム、ブリル・ビルディングのライター達に多大な影響を与えた面も見逃せない。R&Bの偉大なソング・ライター・コンビのリバー&ストーラーについては、また別の機会に譲りたい。

 

  ザ・コースターズとリバー&ストーラー。かつてR&Bのアウトサイダーと言われた独特のサウンドは、今聴いても色褪せないサウンドである事は間違いない。

 

Text by 金子 ヒロム