憧れと成功と影/デル・シャノン

 アメリカン・ポップスというジャンルは全盛期が僅か2、3年に過ぎない。そのパイオニアとして活躍したポール・アンカ、ニール・セダカ、ジーン・ピットニー等は、その才能は勿論の事、次のサクセスを目指すタフさを備えていた。彼等のタフさがあったからこそ、アメリカン・ポップスは21世紀の今も歌い継がれている。しかし、その反面、栄光を手にした後にもがき苦しみながら沈んでいったアーティストも数多く存在する。

 今回取り上げるデル・シャノン。彼は大ヒットを記録しながらも次のステップに失敗した。デル・シャノンが”憧れ”を実現し成功を手にするまでの詳細な歴史を紐解くと、14歳でミュージシャンを目指した、と言われる彼のバイオグラフィには疑問符がつく。寧ろ、類希なる才能を持ちながら、その才能によって産まれるであろう”カネ”の匂いを嗅ぎつけた周りに押し流され、成功を手にした後、彼が産み出す”カネ”に群がる人達によって祭り上げられていった、という見方ができるのではないだろうか。

 

 デル・シャノン、本名チャールズ・ウィードン・ウェストオーバーは1934年12月30日にミシガン州グランドラピッズに生まれた。幼い頃、ウクレレとギターを習ったシャノンは、当時のアメリカ青少年と同じく、ハンク・ウィリアムズ、ハンク・スノー、更にディープなレフティ・フリッツェル等のカントリー・ミュージック、カントリー&ウェスタン・ミュージックに”憧れ”るごく普通の少年だった。1954年20歳の時に陸軍に入隊、駐屯先のドイツでは、楽器ができる、という理由でザ・クール・フレイムス楽団に参加しギターを演奏する。

 除隊後、地元ミシガンに戻ったシャノンは、平日はバトルクリークの家具店でカーペットのセールスマン兼配送ドライバーとして働き、週末は趣味の音楽に関われるという理由で地元のハイ・ロー・クラブで働くようになる。彼は除隊後の恩給と家具店の給与をベースに将来は独立して商売を、と考えていた、とも伝えられている。ここまでの彼の人生と人生設計は、当時アメリカの若者の多くがそう考えるものだった。エルヴィス登場以前ミュージシャンになる事は”憧れ”であり、現実的ではなかったのだ。

 しかし、ここから彼の思い描いていた人生は大きく変化していく。たまたまハイ・ロー・クラブのレギュラー・バンド、ダグ・デモット&ザ・ムーンライト・ランブラーズのリズム・ギターに欠員が出た。そこで週末だけ働きに来ていたシャノンに声が掛かり、彼は週末を条件にプレイするようになる。しかしバンドのメンバー達はシャノンの才能とセンスに驚き、バンド内のクーデターを画策、1958年、バンドは以前より素行の悪かったヴォ-カリスト、ダグ・デモットを解雇、シャノンをバンドのリーダー兼ヴォーカルに据え、バンド名もザ・ビッグ・リトル・ショー・バンドと改名し再スタート。翌1959年、バンドにキーボーディストとしてマックス・クルックが加入する。彼はクラビオリンという初期型シンセサイザーを自ら作る程の技術を持っており、バンドのレコーディングも手掛ける。クルックは、デモ・テープをアン・アーバーのラジオ局で人気DJだったオーリー・マクラフリンに売り込んだ。シャノンの歌とクルックのサウンド・メイキングに驚いたマクラフリンは、知り合いのプロデューサー、ハリー・バークに彼等を紹介する。ロックンロール・ムーヴメントが下降線を描いていた時期、新しいタレントを欲していたバークにとって、シャノンとクルックは最高の原石だった。こうして1960年7月、シャノンとクルックはビッグトップ・レコードと契約を結び、バークのアドバイスで芸名デル・シャノンを名乗るようになった。周囲に流されながらもシャノンは”憧れ”を実現した。

 ニューヨークでレコーディングされたシャノンとクルックの共作で、間奏におけるクルックのクラビオリンによるソロが印象的なナンバー「ランナウェイ(邦題:悲しき街角)」は1961年2月にリリースされ、全米1位、全英1位と世界的な大ヒットを記録。同年4月にリリースされた「ハッツ・オフ・トゥ・ラリー」も全米5位と、シャノンはアメリカン・ポップスの波に乗ってスターダムの仲間入りを果たした。余談だがヒットを続けていた1963年、イギリスでも絶大な人気を得ていたシャノンは、ビートルズの「フロム・ミー・トウ・ユー」をレコーディングしている。これはアメリカで初めてビートルズの曲をレコーディングした記録であり、ビートルズが同曲をリリースするよりも前にチャート・インさせている。

 

 成功を手にしたシャノンに陰りが見え始める。マネージャー、レコード会社とシャノンの間がギクシャクし始めたのだ。ヒット曲を次々生み出しているにも関わらず、身入りが少ない状態に気付いたシャノンは、周りに促され自らのレーベル、バーリー・レコードを設立する。2枚のシングルをリリースするが、ヒットにはならず、結局1964年アミー・レコードに移籍、バーリー・レコードは負債を抱えて消滅した。その後「ハンディ・マン(1960年ジミー・ジョーンズのカヴァー)」、「ドゥ・ユー・ウォナ・ダンス(1958年ボビー・フリーマンのカヴァー)」、「キープ・サーチン」等チャート・ヒットは幾つかリリースするが、かつての輝きは失っていった。シャノンは初心に戻る意味も込めた自らのルーツであるカントリー・ミュージックのカヴァー・アルバム『デル・シャノン・シングス・ハンク・ウィリアムズ』を1965年にリリースしている。

 1966年リバティー・レコードに移籍。1965年に彼のナンバー「アイ・ゴー・トウ・ピーシーズ」をピーター&ゴードンがカヴァー・ヒットさせている事を知ったシャノンは、他のアメリカン・ポップス・シンガーに遅れながらマーケットをヨーロッパに移す。ローリングストーンズのマネージャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムのプロデュースでトム・フィッシャーの「ザ・ビッグ・ハット」、ストーンズの「アンダー・マイ・サム」、翌1967年「シー」、「レッド・アロング」、「ランナウェイ(再録音版)」をリリース、カナダとオーストラリアのチャートでヒットを記録した。シャノンはオールダムと共にアルバム『ホーム・アンド・アウェイ』を制作、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンド』を意識した内容であったが、リリース叶わず1978年になってから、『アンド・ザ・ミュージック・プレイズ・オン』というタイトルで発売されている。

 1967年9月にシャノンは『ザ・フューチャー・アドヴェンチャーズ・オブ・チャールズ・ウェストオーバー』のレコーディングを始める。自らの本名を入れたタイトル通り、それまでのキャリアの集大成的なアルバムであったが、セールスは大失敗に終わった。ネーム・バリュー低下、周囲との軋轢、そして自ら歌う事に限界を感じたシャノンは、ようやく自分でコントロールを始める。そしてプロデュース業に転身、ロスアンゼルスでカントリー・シンガー、ジョニー・カーバーを見出しデビューシングル「ワン・ウェイ・オア・アザー」を作曲、アレンジを手掛けた。また1969年にはスミスを発掘、シュレルズのヒット「ベイビィ・イッツ・ユー」をアレンジしてヒット。1970年にはカーティス・メイフィールドの「ジプシー・ウーマン」をリメイク、ブライアン・ハイランドのミリオン・セラー・ヒットに仕立てた。ユナイテッド・アーティストと契約したシャノンは1973年『ライヴ・イン・イングランド』をリリース、ライヴ活動にシフトするようになるが、同時にアルコール中毒になり活動は停滞した。

 

 1978年、中毒を脱したシャノンは、彼をリスペクトするトム・ペティによって復活。二年かけてレコーディングされたアルバム『ドロップ・ダウン・アンド・ゲット・ミー』はトム・ペティが全面プロデュース、ハートブレーカーズがバックを務めた。7曲のシャノンのオリジナルと、エヴァリー・ブラザーズ、ストーンズ、フランキーフォード、そしてシングル・カットされた「シー・オブ・ラヴ」等のカヴァーを含む8年ぶりのアルバムは、デル・シャノンが”生きている”事を印象づけた。

 しかし、彼は辛酸を舐めてきた人間関係によるうつ病に長年苦しんでいた。そして1990年2月8日、カリフォルニア州サンタクラリタの自宅においてライフル銃で自殺を遂げる。享年55歳。

 

 ポップ・ミュージックが誕生して以後、いつの時代でも自らをコントロールできない”歌う人形”のようなアーティストが必ず存在する。同時に、その”歌う人形”が産み出す恩恵にあやかろうと群がる連中も必ず存在する。デル・シャノンの人生は、まさにそれに準える人生と考えられる。アメリカン・ポップスの終焉と共に、アーティストは馬鹿では生き残れない時代となった。アーティストには、“憧れ”を実現し成功を手にした瞬間から、本当の意味での”強さ”が試される時代とも言える。

 しかし、彼の楽曲は、他のパイオニア達の楽曲同様、今も歌い継がれている(彼の死後、トラベリング・ウィルヴェリーズは「ランナウェイ」をレコーディング)。それはデル・シャノンの才能・楽曲の素晴らしさと共に、皮肉ではあるが、かつて彼の人生を狂わせていった周囲の人達による効果が今も活きているからだろう。

 

Text by 金子ヒロム