時代の波に乗り続けた男/ジーン・ピットニー

 ロック、ポップ・ミュージックのアーティスト達は、普通の人とは違う才能、そしてちょっとした運があってデビューする。彼等は一度ヒットを飛ばした後、目の前に立ちはだかる壁を打ち破り、更に高みに挑戦する者もいるが、多くはそのポジションをなんとか維持し続ける為に必死になる。

 維持する為には挑戦を止め、成功したスタイルをやり続けていく事が一番手っ取り早い。しかし、歴史に残るようなスタイルで成功しなければ、いつか消えていく。如何に時代の波に乗り続けるか?それが維持していくポイントだろう。

 今回はその時代の波に乗り続けたシンガー・ソングライターでアメリカン・ポップスのパイオニア、ジーン・ピットニーについて書いていきたい。

 

 1941年コネチカット州ハートフォードに生まれたジーン・ピットニーは、当時のアメリカの音楽好きな白人少年と同じくカントリーに影響を受ける。一番のお気に入りはカントー、ヒルビリーのピアニストで、あのジェリー・リー・ルイスにも影響を与えたムーン・マリカン。ある日、マリカンのブギウギ・ピアノと似たタッチではあるが、荒っぽく力強い音楽を偶然聴いたピットニー少年は、それが黒人音楽である事を知る。そこからは家族に隠れ、ドゥー・ワップを聴くようになり、当時クライド・マクファターがリード・シンガーだったドリフターズ、ザ・クロウズがお気に入りとなった。

 

 地元のロックヴィル高校に進学後、ハートフォードにやってきたエルヴィス・プレスリーを観て衝撃を受けたピットニーは、ジーン&ジェニアルズを結成、ステージでは自らをロックヴィル・ロケットと名乗る。その活動と並行しながらドゥー・ワップ・グループ、エンヴァーズではリード・シンガーを務め、更にカントリー・シンガーのジニー・アーメルとのカントリー・デュオ、ジェニー&ジェーンではシングルをリリースと多彩なミュージック・キャリアを積んでいく。そういった活発な活動がネクスト・エルヴィスを探していたレコード会社のスカウト網に引っ掛り、ピットニーは1959年ソロ・デビュー。しかしビリー・ブライアンという取って付けたような芸名で、シングル数枚で失敗に終わる。次のチャンスを待ちながら、ピットニーは既にオリジナル曲を歌ってヒットしていたバディ・ホリー、エデイ・コクラン、そしてチャック・ベリーの動向を観察していた、そして彼はシンガー・ソングライターを目指すようになる。

 

 1961年、新設されたレコード会社、ミュージコアとようやく契約を交わしたピットニーはオリジナル曲「恋なんておサラバ」で再デビューし初チャート・イン。続く「ルイジアナ・ママ」は完全に失敗するも(何故か日本では飯田 久彦によるカヴァー・ヴァージョンが1962年大ヒットを記録)、3枚目の「エヴリ・ブレス・アイ・テイク」が再びチャート・イン。以後、「非情の町」、「リバティ・バランスを撃った男」、「恋の痛手」と連続大ヒットを記録、アメリカのミュージック・シーンに躍り出る事に成功した。シンガーとしてだけでなく、ヒット・メーカーとして認められたピットニーは、作曲家として他アーティストにも楽曲を提供する。リッキー・ネルソン「ハロー・メリー・ルー」、ボビー・ヴィー「ラバー・ボール」、ザ・クリスタルズ「ヒーズ・ア・レベル」等のヒットを次々と作曲。更にザ・クリスタルズのレコーディングで、奇才フィル・スペクターと知り合う事になる。

 だが、ピットニーを始めポール・アンカ、ニール・セダカ等アメリカン・ポップス全盛の時代は長くは続かなかった。ビートルズを筆頭とするブリティッシュ・ビートグループが大挙してアメリカのヒット・チャートを席巻するようになり、ソロ・シンガーでは無くヴォーカル&インストゥルメンタルのバンド・スタイルが主流となったのだ。ピットニーの出す曲はチャートで低迷、ピットニーは時代遅れになった、と誰もが思った。

 しかし1963年にリリースした「24アワーズ・フロム・タルサ」が翌1964年初めの英国チャートで5位という大ヒット。これがキッカケとなり、ローリングストーンズのマネージャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムの口利きでピットニーはロンドンに渡り、ストーンズのファースト・アルバムのレコーディングで「リトル・バイ・リトル」を始めとする数曲に参加(アンドリューはフィル・スペクターに憧れており、かつてクリスタルズでフィルと仕事をしたピットニーを早くからチェックしていた)。そのお返しで、ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズのコンビが作曲した「ザ・ガールズ・ビロング・トゥ・イエスタディ」がピットニーに贈られる。このナンバーをピットニーは早速レコーディング、英国チャートで7位を記録する。こうしてイギリスでのポジションを得たピットニーは活動拠点をイギリス、ヨーロッパに移し、毎年数曲を英国チャートでトップ10入りさせ、1970年代以降もヨーロッパでの安定したポジションを手に入れたのである。

 

 ピットニーのオリジナル楽曲は、ロックンロールのリズムを応用しながら、当時人気だったポール・アンカ、またジェリー・ゴフィン、キャロル・キング等ニューヨークのコンポーザー・チームとは少々違うスタイルだった。初期は「ハロー・メリー・ルー」、「ルイジアナ・ママ」のようにカントリー要素の強いナンバーもあったが、ドゥー・ワップ等黒人音楽の影響によるソウル・タッチのナンバーが多かった。ジャズ、ブルース、ロックンロール、モータウン等をベースにしたブリティッシュ・ビートグループのサウンドが流行していたイギリスで、ソウル・タッチで尚且アメリカの空気がトッピングされたピットニーの楽曲は大いに歓迎されたのだろう。

 

 1980年代に入り、パンク・ロックの後をうけてヨーロッパで発生したロカビリー・ムーヴメントでピットニーのナンバーがカヴァーされるようになり、ようやくアメリカでも再評価が始まる。また、1989年にはソフトセルのマーク・アーモンドとのデュエット「サムシングス・ゴット・ホールド・オブ・マイ・ハート」が英国チャートで1位を獲得。これがピットニーの最後の1位となった。これ以後は2006年に亡くなるまで、ヨーロッパ各国でツアーを展開していた。マーク・アーモンドは2007年に出したアルバム『スターダム・ロード』で追悼の意味を込めて、ピットニーのナンバー「バックステージ」をカヴァーしている。イギリスのロック、ポップ・シーンにピットニーがどれだけ影響を与えたのかが判るエピソードだ。

 

 才能があり、ちょっとした運を持っていたジーン・ピットニーは、ネクスト・エルヴィスの波には乗り切れなかった、寧ろ振り落とされたが、シンガー・ソングライターとして次のアメリカン・ポップスの波に乗り、そしてスウィンギング・ロンドンの波に巧みに乗った。時代の変化に立ち止まる事なく、次の波に乗り続けたピットニーは、ミュージック・シーンにその名が刻まれる存在となった。如何に時代の波に乗り続けるか?ジーン・ピットニーの音楽人生はそれを示してくれている。

 

 Text by 金子ヒロム