アメリカン・ポップスというジャンルを創ったポール・アンカ

  Ⅰ⇒Ⅵ⇒Ⅳ⇒Ⅴ

 この記号、いきなり見てもなんの事か判らない方が多いと思われるが、楽器でピアノ、ギターをやられている方はピンとくるだろう。これは楽曲のコード進行を現すモノで、例えば曲の主音(ルート)がCで始まる曲ならば、C⇒Am⇒F⇒Gと小節毎にチェンジしていく。この和音進行の繰り返しは循環コードの一例だ。ロックに限らずポップス、その他あらゆるジャンルにおいてこの循環コードで作られた楽曲は多数有り、ここ日本でも戦後の歌謡曲、フォーク、ロックでは盛んに使われており、メロディーを乗せるセンスさえあれば、無限に曲を作れる“黄金”のコード進行なのだ。

 

 さて、今回のテーマであるポール・アンカ。

今年でデビュー60周年を迎えるが、アメリカ、ヨーロッパでは、1958年~1962年の人、即ちロックンロール創生期後半からビートルズを始めとするブリティッシュ・ビートグループが台頭するまでの狭間の時代だけヒット曲を連発した人、あるいはフランスで埋もれていた曲「マイ・ウェイ」を掘り出し、フランク・シナトラに歌わせスタンダードに仕上げた人、というイメージが強い。ここ日本でもアメリカの懐メロ歌手という域を出ていない。

 このようにロックンロールとは対極のポジションに置かれているポール・アンカだが、しかし、彼こそシンガー・ソング・ライターとして“黄金”のコード進行を駆使、数多くの名曲をこの世に送り出した人物なのだ。

 

 1941年7月30日、ポールはカナダ・オンタリオ州オタワでシリア系移民の父とレバノン系移民の母の間に生まれた。両親が共に中東系移民でありながら、イスラムでもユダヤでもなくキリスト正教徒である点は非常に珍しい。やがてポールはフレデリック・カラムという中東レバノン系移民がオーガナイズするセント・エリアス・アンティオキア正教会合唱団で、声楽、ピアノ、そして正式な音楽理論を学ぶ。フィッシャー・パーク高校に進んだポールは、クラスの仲間達とボビー・ソクサーズという名前のコーラス・グループを結成、学んだばかりの音楽理論を実践しながらソング・ライター、ヴォーカルとしての活動を始めた。

 1957年、ポールの才能を認めていた叔父は、ポールに100ドルを渡しニューヨークのABCで行われるタレント・オーディションに参加させた。たまたまオーディションの現場に居合わせたのが、名プロデューサーのドン・コスタ。未だ16歳の少年が大人びた声で歌うメロディーは、一聴すればすぐに覚えられるキャッチーさを持っていた。コレが売れない訳がない、と感じたドン・コスタは、すぐにポールとレコーディング。ポールのオリジナル曲のデビュー・シングル「ダイアナ」は全米、そしてカナダで空前のナンバー1ヒットを記録した。特にカナダにおいては、出身アーティストのシングルで最も売れたレコードとして今だこの記録は破られていない。翌1958年、全米チャートのトップ20に次々とヒットを送り込み、17歳にしてミュージック・シーンにおける不動のポジションを確立、更にバディ・ホリーの前座として英国、オーストラリア・ツアーにも帯同する(その縁から1959年バディ・ホリーに楽曲「イット・ダズント・マター・エニモア」を提供、バディ生前最後にレコーディングされている)。それまで爆発的な人気だったロックンロールは、様々な圧力によって人気に陰りが見え始めており、タイミング良く新たなティーン・アイドルとして登場したのがポールだったのだ。彼自身のキャリアで最大のヒット曲「ロンリー・ボーイ」を経て、1960年にはNBCテレビのドラマ「ダン・レイヴェン」に出演し音楽も担当、また1962年には超大作戦争映画「史上最大の作戦」に出演、テーマ曲も作曲という新しいアイドル・スタイルを構築。更にラスベガスで定期出演する最初のポップ・シンガーにもなった。

 しかし、1964年以後、ビートルズを始めとするブリティッシュ・ビートグループが台頭すると、人気は急降下。1970年代に新たに再始動するまでは裏方、コンポーザーやプロデューサーとして過ごす事になる。

 

 ドン・コスタが目をつけたポール・アンカの才能は、その楽曲のクオリティの高さだったと言う。それまでのポピュラー・ミュージックと言えば、ビッグバンドによるジャズや、アイリッシュ・フォークをルーツとしたカントリーであり、ダンス・ミュージックとしての役割が大きかった。更にロックンロールの出現によって、まずリズムありき、メロディーは二の次といった曲が増え、メジャー・コードでⅠ、Ⅳ、Ⅴ(例:キーがCの場合、F、G)の3つのコードを組み合わせた進行、ブルース、ロックンロールの基本となるパターンが殆どだった。

 ポールはそこにⅥのマイナー・コード(短調)を巧みに加えた。マイナー・コードを取り入れるコード進行は、ヨーロッパの教会音楽、またアイリッシュ・ミュージックで既にあった手法だったが、どちらかというと短調ならではの哀愁、悲しみ、寂しさを強調するような使い方、メロディーが多かった。日本でもマイナー・コードを取り入れた曲は昔からあるが、民謡、後の演歌に通じる哀愁、悲しみ、寂しさが大きい。しかし、ポールはワンポイント(半小節~一小節)だけマイナー・コードを入れる事によって、平坦になっていたメロディーに幅を持たせる事に成功した。若干16歳にしてコード進行のマジックを身に付けていたのだ。

 余談だが、ポールと共にアメリカン・ポップスを作ったもう一人の立役者、ニール・セダカも中東移民ユダヤ系の父親を持ち、ジュリアード音楽院で正式な音楽理論を学んでいる。彼はニューヨークの作曲チーム:ブリル・ビルディングに属し、19歳でヒット曲を次々と送り出したが、彼もブリル・ビルディングの他のソング・ライター、ジェリー・ゴフィン等と共にコード進行のマジックに気がついていた一人だった。この事は前述の通り、当時のポップ・ミュージックの状況を鑑みれば偶然とは言い難い。このソングライティングが、モータウンやガールズ・グループの楽曲に影響を与え、名曲を数多く残す事になる。ブリティッシュ・ビートグループも、既にアイドルだったポール・アンカの楽曲には抵抗感があったが、ブリル・ビルディング系の楽曲は素直に受け入れてカヴァーしているところが面白い。

 

 1971年、トム・ジョーンズに提供した「シーズ・ア・レイディ」がヒット、シーンに戻ってきたポールは、自ら歌う事よりも他のアーティストに提供した曲がヒット、マイケル・ジャクソンとも「THIS IS IT」で共作、75歳の現在も活動中だ。

 ポール・アンカが作曲した名曲の数々は、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本で何度もカヴァーされ、今も歌い継がれている。“黄金”のコード進行によって生み出されたメロディーに、ロックンロールのビートを加えた新しい音楽。それは後にアメリカン・ポップスと呼ばれるようになる。

 ポール・アンカは決して時代の狭間の懐メロ・シンガーではない。ロックンロール誕生に続くムーヴメント、アメリカン・ポップス創生期の偉大なパイオニアの一人なのだ。

 

Text by 金子ヒロム