ソニー・カーティスが結ぶロックンロールの点と線

 

 ソニー・カーティスと聞いて、すぐにピンとくる人はかなりのロックンロール・マニアの方だろう。

 ボビー・フラー・フォー、ストレイ・キャッツ、そしてクラッシュがカヴァーした「アイ・フォート・ザ・ロウ」の作曲者として知られているが、実はロックンロール創成期、少年時代からの仲間であるバディ・ホリーを支え、バディ亡き後は彼のグループ:ザ・クリケッツを牽引してきた事はあまり知られていない。

 

 ソニー・カーティスは1937年、テキサス州北部の都市ラボックから南西に約30キロ程離れた共同農場地メドウの綿農家に生まれた。ブルーグラス・グループ、メイフィールド・ブラザーズで活動していた叔父エド・メイフィールドと、その兄妹でミュージシャンだった叔母の手ほどきで、二人の兄と共に7歳の時にギターを弾き始める。

 やがてソニーはラボックのローカル・クラブで兄達と共に演奏するようになるが、若干12歳でローカルラジオ局のブルーグラス、カントリー・ミュージック番組を持つほどで、テキサスでは名の知られる天才少年となっていった。そして地元のコンテスト荒らしを続けていた15歳の時、同じラボックで活動していたバディ・ホリー、ボブ・モンゴメリー、そしてジェリー・アリソンと出会う。同年代で意気投合した彼等はすぐにカントリー・バンドを結成、活動を開始した。

 1955年、ソニーとバディが地元のコンサートに出演した時、後の彼等の人生を決定づける出来事が起きる。エルヴィス・プレスリーと共演、それまで彼等が聴いた事の無い音楽を目の当たりにしたのだ(前々回のコラム『ブルースマンのように再発見されたエディ・コクラン』でも記したが、1955~56年当時、全米をサーキットしていたエルヴィス・プレスリーの発する音楽、ロックンロールは、各地で活動していたバンドマン、ミュージシャン達に相当なショックを与えていたと考えられる)。

 それまでチェット・アトキンスがアイドルだったソニーは、高校を中退、楽器店でアルバイトしながらエルヴィスのギタリスト、スコティ・ムーアのスタイルをマスターする為、必死にギターを弾き、バディとジェリー・アリソン、ボブ・モンゴメリーも新しい音楽:ロックンロールを研究すべくリハーサルを重ねていた。その甲斐あってか、デッカ・レコードがバディに契約を申し出る。1956年、ナッシュビルでアルバムのレコーディングが行われ、ソニーはギターをプレイすると同時に、彼自身初のオリジナル「ロック・ウィズ・アラウンド・オリー・ヴィー」を作曲する(レコーディングされたアルバムは1958年にデッカから『ザットル・ビー・ザ・デイ』としてリリース。タイトル曲のシングルは1957年5月にリリース)。本格的なキャリアをスタートしたソニーは、カントリー・シンガー、スリム・ウィリアムスのツアーにもギタリストとして参加。またソング・ライターとしてカントリー・シンガー、ウェブ・プライスに「サムディ」を提供する。1957年にリリースされたこの曲はカントリー・チャートでトップ10入りを果たす。バディがデッカとの契約を終了した後、ハンク・スノーのツアー・メンバーにも名を連ねた。しかし、ソニーの忙しさが裏目に出てしまう。多忙な日々を過ごしている間、バディ達に目を付けていたプロデューサー、ノーマン・ペティがコーラル・レコードとバディ達の契約を締結してしまったのだ。そこにソニーの名前は無かった。ソニーは新たに命名されたバディのバンド、ザ・クリケッツのメンバーになれなかったのだ。

 落胆したソニーはカリフォルニアに移住、地道にカントリー・ソング・ライターとしての活動を始めるが、バディはソニーを見捨てなかった。1957年リリースされたデビュー・アルバム『バディ・ホリー&ザ・クリケッツ』のレコーディングにソニーを呼んだのだ。アルバム・クレジットには記載されていないが、ソニーはバディと共にサウンド・プロデューサー的な役割を果たし、ギターもプレイしている。最初はソニーを快く思わなかったノーマンだったが、途中からソニーの才能に気づき、翌1958年、バディ&ザ・クリケッツが「ペギー・スー」、「オー・ボーイ」、「メイビー・ベイビー」の連続ヒットで人気が急上昇しデッカ時代のアルバムも売れ始めると、バディとクリケッッツの“別売り”を画策する。バディとパッケージでない時のザ・クリケッツでヴォーカルとしてアール・シンクスを立てたノーマンは、ジェリー・アリソンを使ってソニーを説得する。ソニーをザ・クリケッツのサウンドの要にしたかったのだ。昔からの仲間の口説きで、ようやくソニーはザ・クリケッツに加入する。しかしこの“別売り”がバディとソニーの運命も“別ける”事になる。

 

 1959年2月、バディ・ホリーはツアー移動中の飛行機事故により急逝。商魂逞しいノーマンの戦術で、ザ・クリケッツは追悼盤としてすぐにバディの遺作「ラヴズ・メイド・ア・フール・オブ・ユー」をオーヴァー・ダヴィングしてリリース。バディを失い、独自の道を歩まねばならなくなったソニーとジェリー・アリソンは覚悟を決め、曲を作り、ザ・クリケッツを新しいバンドとして再生させていく。

 まず、彼等はエディ・コクラン生前最後のレコーディングに参加、そして1960年エヴァリー・ブラザーズUKツアーのバック・バンドを務め、更に当時売り出し中のボビー・ヴィーに「モア・ザン・アイ・キャン・セイ(邦題:星影のバラード)」を作曲、大ヒットする(この曲は1980年にレオ・セイヤーがカヴァー、世界的リヴァイヴァル・ヒットを記録する)。その間を縫う様にレコーディング、リリースされたのが、ザ・クリケッツの傑作アルバム『イン・スタイル・ウィズ・ザ・クリケッツ』。ソニーの才能が一気に花開いたこのアルバムには、ロックンロール・カヴァーの他「モア・ザン・アイ~」、そして「アイ・フォート・ザ・ロウ」が収録された(ブライアン・プール &トレメローズで大ヒットした「サムワン,サムワン」はレコーディングされたが未収録。CD化された時のボーナスとして初めて収録)。ボビー・フラー・フォーは1965年にこのアルバムから「アイ・フォート・ザ・ロウ」、そしてバディの遺作「ラヴズ・メイド・ア・フール・オブ・ユー」を翌1966年にシングルでリリース。

 ソニーは後年インタビューで、「アイ・フォート・ザ・ロウ」について、次のように語っている。

“昔からよくある西部劇のカントリー・ソングがベースであり、ギター・ソロが上手くいった曲だ。ボビー・フラー・フォーとストレイ・キャッツのカヴァーはオリジナルに忠実で気に入っているよ。勿論、100倍激しさを増したクラッシュのヴァージョンもね”

 

 1960年『イン・スタイル~』リリース後、ソニーは兵役に就くが、1962年除隊後すぐにザ・クリケッツに復帰すると同時にEMI系リバティ・レコードと契約を結ぶ。1962年にはボビー・ヴィーとのアルバム『ボビー・ヴィー・ミーツ・ザ・クリケッツ』リリース、UKツアーも行う。

その後も60年代~90年代にかけてコンスタントにアルバムをリリースし続けたザ・クリケッツは、21世紀の今もソニーとジェリー・アリソンを中心に活動を続けている。

ソニーは1991年にナッシュビルでカントリー・ソング・ライターとして、更に2007年には同じくナッシュビルでザ・クリケッツとして殿堂入り。2012年には念願のザ・クリケッツのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした(バディ・ホリー&ザ・クリケッツは既に殿堂入りしていた為、特別委員会によってソニーが追加。またソニーはバディ・ホリーの生涯を描いた1978年の映画【バディ・ホリー・ストーリー】を観て、事実とは異なる内容に抗議を込めた曲「ザ・リアル・バディ・ホリー・ストーリー」を1980年にリリースしている)。

 

 もし、バディ・ホリーが死なず、ソニー加入後のザ・クリケッツと活動を共にしていたならば、「アイ・フォート・ザ・ロウ」はバディ&ザ・クリケッツをリスペクトしていたビートルズやマージー・ビートのバンドがキャヴァーン・クラブで毎晩演奏していたかも知れない(因みにソニーはソロ作品でビートルズの曲をカヴァーしたアルバム『ビートルズ・ヒッツ・フラメンコ・スタイル・ギター』を1964年にリリースしている)。

 バディ・ホリーに始まり、エヴァリー・ブラザーズ、ボビー・ヴィー、ビートルズ等1960年代ブリティッシュ・ビートグループ、そして70年代、80年代のクラッシュ、ストレイ・キャッツ。ソニーが産みだしたブルースからのアプローチとは異なる、カントリー・ミュージックからのロックンロールは、ロカビリー、アメリカン・ポップスへの大きな橋渡しとなり、ソング・ライターとして数多くのスタンダード・ナンバーを産みだした。偉大なバディ・ホリーの陰に隠れ決して目立つ存在では無いが、ロックンロールの点と線を結んだ偉大な人物である事に間違いは無い。

 

Text by 金子 ヒロム