ザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズに“もし”があったなら

 

 

 1960年代に次々とデビューしたブリティッシュ・ビートグループで、解散せずに今も活動を続けているバンドと言えば、ローリングストーンズやザ・フーがすぐに思い浮かぶ。ストーンズもフーもロンドンのグループだが、リヴァプール出身マージー・ビートのグループで唯一、解散せずに今もなお活動し続けているグループがいる。ザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズ。彼等はキャリアの中で生じた幾つかの分岐点で、”もし”こっちに行っていたなら、という歴史のアヤを感じながら進んでいったバンドだ。

 

 イギリス・イングランド北西部マージーサイド州の中心都市であるリヴァプール。御存知の通りマージー河畔にある古くからの港街で、19世紀から第二次大戦勃発までをピークに各国の船が出入りする非常に活気ある都市だった。他国文化の流入によって街は活性化する反面、多くの異民族が訪れる事による自由で何でも有りの風土、つまりワルが生息し易い街でもあった。

  このリヴァプールで1940年に生まれたレイ・エニスは、地元不良グループのメンバーだった。レイと同い年のビートルズのジョン・レノンも相当のワルだったが、レイはホンモノのギャング団だったようだ。そんなレイがワルから足を洗うキッカケは1956年、大西洋を渡ってやってきたエルヴィス・プレスリーを始めとするロックンロールだった。レイはジョン・レノンと同様に早速仲間を集めてスキッフル・バンドを結成する。バンドのネーミングはジーン・ヴィンセント&ブルー・キャップスにヒントを得たザ・ブルー・ジーンズ(最初のスペルはBLUE GENES)。ジーン・ヴィンセントがイギリスでもメジャーな存在になったのは、エディ・コクランと行なった1960年のUKツアー以後だったので、それよりも前にジーン・ヴィンセントを知っていたレイやジョン・レノン等リヴァプールのティーン達は、相当アメリカから持ち込まれたレコードを聴きあさっていたと考えられる。

 1958年、リヴァプール・エンパイア・シアターで行われた地元のバンドを集めたコンテスト、バング・コンテストにおいて、レイ率いるザ・ブルー・ジーンズは、エントリーしていたビートルズの前身、クオリーメンに勝って見事グランプリを獲得する。準グランプリに終わったバンドのギタリスト、ラルフ・エリスは、レイの圧倒的なパフォーマンスに感服、自分のバンドをあっさり解散、レイにザ・ブルー・ジーンズに入れて欲しい、と願い出た。レイはラルフの願いを快諾、こうしてザ・ブルー・ジーンズの屋台骨が揃う事になる。

 

 しかし、このコンテストが彼等のキャリア、最初の分岐点となる。

地元放送局、マスコミ、またレコード会社のスカウト、プロデューサーも顔を揃えていたコンテストにおいて、圧倒的なパフォーマンスで優勝しながらも、彼等にメジャー・レーベルからのちゃんとしたリアクションは無かった。クオリーメンはまだリーゼント・スタイルでハンブルグのキャバレー巡業を始めたばかり。ジェリー&ザ・ペイスメーカーズやサーチャーズは未だ結成されていない。メジャー・レーベルからすれば当時の主流、ヴォーカル&バック・バンドのスタイルでは無く、リヴァプールのグループが始めたヴォーカル&インストルメンタルのスタイルに対し、凄くパワーは感じるが果たしてコレは一体何だ?という認識で、売れるか売れないか皆目見当もつかなかったのだろう。ブライアン・エプスタインがビートルズを“発見”するまで、この時から更に3年を要する。ザ・ブルー・ジーンズにとっては少々早すぎたグランプリだった。

 1961年には新たにベースにレス・ブライド、ドラムにノーマン・クルークが加入、着実にレパートリーを増やしていったザ・ブルー・ジーンズは、キャバーン・クラブにレギュラー出演、ビートルズ等と共にリヴァプールを代表するバンドになっていく。そして1962年、既にビートルズとジェリー&ザ・ペイスメーカーズのマネージメントを始めていたブライアン・エプスタインから、ザ・ブルー・ジーンズにマネージメント契約の話がくる。

 

 このオファーが彼等のキャリア、二つ目の分岐点。

彼等はなんと、ブライアンの申し出を断ってしまったのだ。理由はビートルズ等のマネージメントで忙しいブライアンは、果たして自分達を充分にマネージメントしてくれるのか疑問だったから、と言われている。ザ・ブルー・ジーンズは結局マルチグラ・クラブのオーナー、ジム・アイルランドとマネージメント契約をする事になる。

 マネージャーとなったジムは、トルネイドーズの大ヒット曲「テルスター」をプロデュース、当時イギリスのフィル・スペクターと呼ばれていた奇才、ジョー・ミークにザ・ブルー・ジーンズを売り込んでしまう。ジムとしては畑違いのプロデューサーに頼む事によって化学反応を期待したのかも知れないが、結果、オーディションは失敗に終わる。翌1963年、バンド・ネームをザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズ(スペルもBLUE JEANSに変更)に改め、EMI傘下のHMVレーベルとなんとかレコーディング契約を締結。同年6月にオリジナル曲「イッツ・トウー・レイト・ナウ」でデビュー、チャートは30位止まりだった。続くシングル「ドゥ・ユー・ノウ」はチャートにすら入らず、バンドは早くも苦境に立たされる。

 

 しかし、ちょっとした事が彼等の人気を押し上げる。BBCを始めとするイギリスのラジオ局は当時ティーンが聴きたいロックンロールを流さなかった。それに反発する形でスタートしたのが海賊ラジオ局として有名なラジオ・ルクセンブルグ。その放送の中で、リヴァプールに工場を持つジーンズ・メーカーがスポンサーとなった番組「スウィンギング・タイム」というザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズのメンバーがホストの15分番組が始まったのだ(バンド名がブルー・ジーンズなので、ジーンズ・メーカーがスポンサーに名乗り出た)。この番組によって、彼等の人気は右肩上がりになっていく。当時、アメリカではラジオで徐々に人気を爆発させる手法が既に確立されており、日本でも昭和50年代ぐらいまではラジオの深夜放送によって徐々に人気が上がっていく、という売り出し方があった。しかし、イギリスではまだラジオによるプロモーションがキチンと確立されておらず、リリース直後に行われる派手な宣伝によってヒットするグループが多かった。ザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズはラジオというメディアで全英の人気を得た最初で最後のグループと言っていいだろう(数年後にラジオ・ルクセンブルグもなくなり、メディアの主力がテレビに取って代わられるからだ)。また、ロックンロールのバンドがホストをつとめる番組、そして番組にスポンサーを付けるという手法も彼らが最初だった。

 光が見えてきた1963年の暮れ、既に人気が出始めていたビートルズのライヴに遊びに行ったザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズは、ビートルズがキャバーン時代からレパートリーとしていたチャン・ロメロのカヴァー「ヒッピー・ヒッピー・シェイク」を思い出した。レイは、自分達ならもっとハードに出来ると考え、これを急遽サードシングルにする。リリースされた「ヒッピー・ヒッピー・シェイク」は全英2位を記録する大ヒット。翌1964年3月には全米チャートでも24位を記録した。

 

 こうしてブリティッシュ・ビートグループのムーヴメントに乗り掛かったザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズに、キャリア三度目の分岐点がやってきた。

アメリカ・ショービジネス界で絶大な影響力を持ち、ビートルズやストーンズ、DC5等が出演、全米での知名度を一挙にアップさせたモンスター番組、エド・サリヴァン・ショーからの出演依頼が来たのだ。しかし、マネージャーのジムはヨーロッパ・ツアーの契約が残っているという理由で、これを断ってしまった。この後、二度とエド・サリヴァンからの出演依頼が来ることはなかった。 

 この一件以後、ザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズは活動のエリアをイギリス、ヨーロッパに重きを置くようになった。1964年4枚目のシングルでリトル・リチャードのカヴァー「グッド・ゴリー・ミス・モリー」は全英11位、全米43位のヒット、5枚目のシングル「ユーアー・ノー・グッド」も全英3位の大ヒットだったが、徐々にアメリカに向けた戦略を怠ったツケが出て始めていた。その後のオリジナル曲「恋の約束」、ジョニー・バーネットのカヴァー「イット・イズント・ゼア」、翌1965年に「君は僕のもの」、「クレイジー・アバウト・マイ・ベイビー」と全くチャート・インせず失敗。1966年にリリースしたディオンヌ・ワーウィックのカヴァー「ドント・メイク・ミー・オーヴァー」が全英31位を記録、この曲が彼等の最後のチャート・インとなった。このリリース直後にエリス脱退。変わりにリヴァプールのバンド、エスコーツのギタリスト、テリー・シルヴェスター(後にホリーズに加入)と、ベースのマイク・グレゴリーが加入。ベースだったブレイドはキーボードに転向し5人編成になる。その後もロニー&デイトナズのカヴァー「サンディ」、オリジナル曲「サマーズ・ゴーン」、ニッカーボッカーズのカヴァー「ルーモアズ・ゴシップス・ワーズ・アントゥルー」とシングルを立て続けにリリースするがいずれもチャート・インせず。1968年コロムビアに移籍後、シングルを2枚リリースしたの最後に音源のリリースを完全にストップ、現在に至っている。

 

 歴史に“もし”は、“タラレバ”の話にもなるが、ザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズの分岐点、“もし”、違う方向を選んでいたら、を考えてみたい。

1. もし、コンテストにブライアン・エプスタインのような人物が来ていたら、彼等はビートルズより早く、ジョニー・キッド&ザ・パイレーツよりも爽やかでスマートにデビューできていたかも知れない。

2. もし、ブライアン・エプスタインとマネージメント契約をしていたら、彼等はジョージ・マーティンと共に革新的なロックンロール・アルバムを創っていたかも知れない。

3. もし、ヨーロッパ・ツアーを蹴って、エド・サリヴァン・ショーに出演していたら、彼等はアメリカに充分インパクトを与えたかも知れない。

2と3を考えると、恐らくアメリカでは確実に成功を収めただろう。1960年代当時、ストーンズよりもブルース色の強かったアニマルズ、ヤードバーズが、アメリカである程度の成功を収めている事から、よりシンプルで判り易く、更に軽快なビートのロックンロール・サウンドをプレイする彼等がアメリカでウケない訳がない。オリジナル曲が少ない、と指摘する方もいるが、ロックンロールやリズム・アンド・ブルースを見事にカヴァーし、一聴して彼等と判るサウンドに仕上げる稀有なアレンジ能力は職人芸に近い。歴史に“もし”があったなら、これだけの斬新さを持っていた彼等は、ロックンロール・バンドの新しい歴史を創ったかも知れない。

 

 デビュー以来6年間で少ないヒット曲ながら、シングル15枚、アルバム4枚をリリースした実績は素晴らしい。1970年代以後オリジナル・メンバーがレイとブレイドだけとなったがヨーロッパを中心にライヴ活動のみを続け、2005年7月31日、ブレイドが肺がんのため死去、唯一生き残ったレイも2010年12月、地元リヴァプールでのライヴを最後に引退する。こうしてオリジナル・メンバーが一人もいなくなったザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズだが、現在もライヴ活動は続いているのだ。毎晩イギリス国内やヨーロッパ各国のどこかのパブ、クラブでザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズが演奏している。同じように主要メンバーは一人も残っていないがライヴ活動を続けているドクター・フィールグッドと同じく、名を残す、という楽団、歌劇団と同じヨーロッパらしい伝統的なスタイルで彼等は今も活動し続けている。

 こうしてザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズという名を残した彼等の選んだ道筋は、決して、間違いではなかったのだろう。

 

Text by 金子 ヒロム