ブルースマンのように再発見されたエディ・コクラン

 エディ・コクランが「シッティン・イン・ザ・バルコニー(邦題:バルコニーに座って)」で正式にデビューしたのは、今から60年前の1957年。今でこそ、ロックンロール創世期の一人として、この日本でも広く知られる存在になっているが、実は1960年に彼が急逝して以後、長く埋もれた存在だった事は御存知だろうか。

 

 エディ・コクラン、本名エドワード・レイ・コクランは、ミソネタ州のアルバート・リアという田舎町に産まれた。10代の頃、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外に家族と共に引っ越したエディは兄からギターを譲ってもらい、カントリー・ギタリストのチェット・アトキンス、ジョー・メイフィス、ジョニー・スミスを懸命にコピーしながらカントリー・ミュージックにどっぷりと浸るようになる。

 1955年、17歳でエディは高校を中退、前年にハンク・コクラン(エディのコクラン家と血縁関係はない。60年代にカントリー・ミュージックのソングライターとして有名になる)とカントリー・デュオ:コクラン・ブラザーズを結成していたエディは本格的に音楽の道を進むようになる。エディが住んでいたロサンゼルスは、ハリウッドもあり、当時から21世紀の今もなお映画・音楽を始めエンターティンメント・ビジネスの発信地となっている。エディ達が音楽活動をするにあたり、コネクションやネットワーク作りに最適の環境だったと考えられる。

 コクラン・ブラザーズで各地を公演するようになったエディは、ある日、同じライヴに出演した当時サン・レコード所属のシンガー、エルヴィス・プレスリーのステージに衝撃を受ける。それまでカントリーのトップを目指していたエディは、メンフィスからやって来た垢抜けない男が発する新しく妖しいサウンドにすっかり取り憑かれてしまった。それまで黒人ブルースは一部地域のラジオでの露出に留まり、チャートもブラック・チャートのみ。チェス・レコードだけが唯一流通に乗り、チャック・ベリーが55年「メイベリーン」でデビューし、ようやくロックンロールと呼ばれる音楽が全米に広まり掛ける直前だった。恐らく白人音楽のカントリーを演奏していたエディは、ブルースには然程興味を持っていなかったのだろう。彼はそのサウンドを究明すべく、ギターだけでなく、ベース、ドラムの演奏にも取り組み、やがてカントリーのマナーから逸脱するような、破壊的サウンドのギターを弾き始める(その為にコクラン・ブラザーズは解散する)。エディは後に彼のマネージャーで共同作曲者となるジェリー・ケイプハートとデモ・テープをレコーディングしながら、セッション・ミュージシャンとしての仕事も始め、デビューするチャンスを伺うようになる。

 翌56年、エディに転機がくる。彼の知り合いで映画プロデューサーのボリス・ペトロフから、製作中の映画に出演オファーがきたのだ。ボリスとしては超低予算映画なので、友人に出演してもらう事で支出を抑える事を考えたのである。それが映画『ザ・ガールズ・キャント・ヘルプ・イット(邦題:女はそれを我慢できない)』。エディに与えられた役柄は、同年にメジャー・デビューし大ブレイク中のエルヴィスをイメージした歌手。彼はこの映画の為に「トゥエンティ・フライト・ロック」をソングラーターのネッド・フェアチャイルドと新たに共作、映画の中で歌った。映画は大したヒットにはならなかったが、ギターを掻き鳴らしながら歌うエディの姿は、“次のエルヴィス”を必死に探していたレコード会社各社のプロデューサー達の注目を集める。

 1957年、最終的にEMI傘下のリバティー・レコードと契約を交わしたエディだったが、契約期間は僅か一年。エルヴィス登場以後、それまで耳当たりの良い歌を歌っていたポップ・シンガーやカントリー・シンガー達はこぞってロックンロールに衣替え、また全米中からエルヴィスを目指す若者が次々と現れ、一年でヒットが出なければ次はいくらでもいる、という時代だったからだ。しかし困難な契約にも関わらず、エディは溜め込んでいた才能を思いっ切り発揮する。

 エディが研究してきたカントリーとブルースをミックスしたサウンド、それこそが後に隆盛を極めるロカビリーのプロトタイプとなった。更にセッション・ミュージシャンをやっていた時に体験した最新レコーディング技術を基に、彼自身で研究と実験を重ねていく。デビュー曲「シッティン・イン・ザ~」は全米18位を記録するが、彼はこの曲でエルヴィスを意識しながらエルヴィス以上のサウンド・エフェクト、エンディングに聴かれるように、ヴォーカル・エコーを最大限まで掛ける事にチャレンジする。また「カモン・エヴリバディ」、「ジニー・ジニー・ジニー」ではウッドベースの変わりに当時まだ珍しかったエレキ・ベースを導入。それまでのシャフル気味の4ビートだったロックンロールに、ソリッドな8ビートをミックスした。58年にリリースした彼の最大のヒット・シングル「サマー・タイム・ブルース」では、最新のエコー技術は勿論、より音の厚み、ワイルドなパワー感を出す為に、ギターのオーヴァー・ダヴィング(多重録音)を試している。1950年代後半、全員がスタジオの中に集まって、せーの、で一発録りが当たり前の時代、まだオーヴァー・ダヴィングという概念が一般的では無く、当時としては革命的なレコーディングだったと考えられる。またエディの使用ギターはグレッチが有名だが、彼はピックアップ・マイクをグレッチのオリジナルから、よりパワーのあるギブソン製ピックアップに交換するという当時では珍しいギターのカスタマイズも行っている。

 

 エディは同時期に現れたバディ・ホリー、ジーン・ヴィンセント、リッチー・ヴァレンス等とロックンロール、ロカビリーのシーンを盛り上げ、スマッシュ・ヒットをリリースし続けた。しかし、エディ自身の最大ヒット「サマー・タイム・ブルース」を超える事は無かった。エルヴィスが徴兵され、1959年にバディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ホッパーがツアー中の飛行機事故で世を去り、チャック・ベリーも人種差別に起因する懲役で収監され、ロックンロール、ロカビリーがアメリカで徐々に下降気味になっていく中、エディはイギリスに活路を見出す。

 1960年、エディはジーン・ヴィンセントと共に英国ツアーを行なう。ツアーは大盛況だったが、アメリカに帰国する為に空港へ向かう途中、移動中のタクシーが街灯に衝突。エディは病院に搬送されたが死亡した。享年21歳(同乗していたジーン・ヴィンセントとエディの婚約者でソングライターのシャロン・シーリーは重傷を負うも助かる)。皮肉にも本国アメリカでは最新シングル「スリー・ステップス・トゥ・ヘブン(邦題:天国へ三歩)」がチャートを上昇中だった。

 しかし、数年後に次々とデビューしていくブリティッシュ・ビートグループのメンバー達は多くがこのツアーを体験した。ビートルズのジョージ・ハリスンがこのツアーの“追っかけ”をしていた話や、Tレックスのマーク・ボランがツアーのローディーになろうとバックステージに潜り込んだ話等、まさに英国ロック・シーンにおいて伝説のツアーだったのだ。彼等はジャズ、ブルースと共に、エディが開発したアメリカン・サウンドに刺激を受けた事は想像に難くない(ビートルズ結成前、ジョン・レノンとポール・マッカートニーがリヴァプール・ウールトンの教会で初めて出会った時、ポールが披露したのが「トゥエンティ・フライト・ロック」と言われている。更に彼等がデビュー前に修行を重ねたハンブルグ時代、オリジナルはレイ・チャールズの「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」を、ピアノの替わりにギターをフューチャーしたエディのヴァージョンで演奏している)。

 

 エディが亡くなって10年後の1970年。ザ・フーとTレックスが「サマー・タイム・ブルース」をカヴァーする。特にザ・フーは名盤『ライヴ・アット・リーズ』収録、シングルもリリース。当時アメリカでは、この曲をザ・フーのオリジナルだと思っていた人がかなりいたという(エディの死後、1961年にボビー・ヴィー、1962年にビーチ・ボーイズがそれぞれ同曲をカヴァーしているが、あくまでアルバムの曲稼ぎ・穴埋め的な扱いだった為、注目度は低かった)。70年代後半にはセックス・ピストルズが「サムシング・エルス」をカヴァー。80年代に入ると本国アメリカでは泣かず飛ばず、仕方なく活動拠点をロンドンに移したストレイ・キャッツが、エディのナンバーを次々とカヴァー・レコーディングする。やがてそのファッションと共に世界的にブレイク、ネオ・ロカビリーのムーヴメントを起こした彼等のレコードを聴いて、アメリカのリスナーは改めてエディ・コクランを再発見、再評価するようになる(ローリング・ストーンズは、そのストレイ・キャッツを前座にした81年ツアーで「トゥエンティ・フライト・ロック」を定番曲にした)

 

 一時期は隆盛を極めながら、いつの間にか歴史の中に埋もれ、一部マニアのみが知る伝説的存在となっていたエディ・コクランは、英国からの逆輸入で復活した。それは、かつてアメリカで埋もれていったブルースマン達が、60年代ブリティッシュ・ビートグループによって本国アメリカに逆輸入で復活、再検証された事象と酷似している。

 活動期間僅か三年、オリジナル・アルバム一枚のみではあったが、数多くロックンロールの実験を試みたエディ。本人は志半ばだったと思うが、再発見されて以後、ようやくロックンロールのパイオニアとして世界的に認められるようになった。

 

Text by 金子ヒロム