人間の本質と表裏一体にあるキンクスの美しさ

  生来芸術家、アーティストという生き物は変わり者が多い、と言うよりも、変わり者しかいないと思う。

 ザ・キンクスというバンド・ネーム。これは御存知のように“キンキー”という言葉に由来している。意味は、ねじれた、よれた等、普通の状態では無い事を指し、そこからヒネクレ者を例える言葉に進化した。キンクスの最重要メンバーであり、グループの顔、レイ・デイヴィスは、かつてインタビューでこのネーミングを嫌っていると語っていた。だが、偏屈で皮肉屋の彼の言葉はどこまで本心なのか誰も判らない。

 

 ロンドン北部の街、イースト・フィンチリーに生まれたレイと弟のデイヴ。デイヴィス家はこの兄弟を含むなんと8人兄弟という大家族だった(下から2人がレイとデイヴ、上の6人は女の子)。第二次大戦終結後の貧しい時期にも関わらず、デイヴィス家は大家族ながら郊外の新興住宅地に転居、音楽を楽しむ余裕もあり、幼い頃から兄弟はアイリッシュ・ミュージックの他、ジャズやミュージカルといった多種多様な音楽と共に日常を過ごしていた。やがて姉達がアメリカから上陸した最新の音楽、ロックンロールのレコードを買ってくるようになり、自然とレイとデイヴにもそれが伝染、兄弟はギターを手にしてロックンロールやスキッフルに熱中する。

 中学に進んだ兄弟は、レイのクラスメートでロックンロールにイカレていたピート・クウェイフ達とレイ・デイヴィス・カルテットを結成、学校のダンスパーティーで演奏しながら、密かに地元のパブやバーでも活動するようになった(余談だが、バンドのヴォーカリストとして同じ学校に通っていたロッド・スチュアートも一時期在籍していた事がある)。

 ビートルズ旋風が吹き荒れ始めた62年、レイはデイヴ・ハント・バンドにギタリストとして加入、当時最先端のブルースとジャズの洗礼を浴びる。地元に戻ったレイは、弟デイヴ、ピートと新バンド:ザ・レイヴンズを結成、そしてロンドンに一獲千金を求めてやってきたアメリカ人プロデューサー:シェル・タルミーと出会う。彼はレコード会社各社に働きかけ、ようやくパイ・レコードとのレコーディング契約を取り付ける。当時のパイ・レコードは、ビートルズやデイヴ・クラーク・ファイヴのEMI、ローリングストーンズのデッカとブリティッシュ・ビート・グループ路線を打ち出していた他社に遅れを取っており、シェル・タルミーはそこを巧みに突いたのである。最後の仕上げでバンドのウィーク・ポイントだったドラマーに、音楽雑誌に売り込み広告を掲載していたミック・エイヴォリーをメンバーに迎えた(ミック・エイヴォリーはチャーリー・ワッツ加入前のローリングストーンズでドラマーだった)。デビューを控え、バンドは名前をザ・キンクスに変える。

 

 リトル・リチャードのカヴァー「のっぽのサリー」で64年2月にデビューするもパッとせず、二枚目のシングル「ユー・スティル・ウォント・ミー」も失敗。しかし、同年8月にリリースされた三枚目のシングル「ユー・リアリー・ガット・ミー」が、TV番組【レディ・ステディ・ゴー】でのパフォーマンスをキッカケにチャートのトップとなる。パイ・レコードは系列のリプリーズ・レコードを通してアメリカでもこの曲をリリース、全米チャートもトップ10入りのヒット。当時としては革命的な歪みきったギターのリフは、アメリカでビートルズやローリングストーンズが上陸以後、続々登場したロック・バンド、ガレージ・バンドに多大な影響を与えた(70年代にはヴァン・ヘイレンのカヴァーによるヒットで、ハード・ロック、ヘビーメタルにも影響を与える)。永遠のロック・ナンバーとなったこの曲を含むファースト・アルバム『キンクス』は全英チャート4位、続いて「ユー・リアリー・ガット・ミー」と同系統のハード・ナンバー「オール・オブ・ザ・ナイト」は全英・全米でヒット。「セット・ミー・フリー」、「ウェイティング・フォー・ユー」も連続ヒットし、ようやくキンクスはストーンズやヤードバーズ、プリティ・シングス等と同じ地点に立った。65年オセアニア・ツアーの際、立ち寄ったインドでシタールを見つけたレイはシングル「シー・マイ・フレンズ」で早速使用、ブリティッシュ・ビート・グループで最初にシタール・サウンドを取り入れ、後のサウンド・アイデアに繋がっていく(ビートルズの「ノルウェーの森」は「シー・マイ・フレンズ」より後にレコーディングされている)。

 デビューの失敗を取り戻したキンクスだったが、セカンド・アルバム『カインダ・キンクス』で早くもレイ、デイヴ兄弟メンバーとシェル・タルミー、そしてレコード会社との間に溝が生じる。「ユー・リアリー・ガット・ミー」、「オール・オブ・ザ・ナイト」等ラウドでエッジの効いた曲がヒット、その路線を続けたかったシェル・タルミーに対して、レイは「シー・マイ・フレンズ」のような新しいサウンドを求めていた。更にヒット至上主義のレコード会社からリリースを早めろ、という圧力で、レイにとっては不満足な状態のミックスでリリースせざるを得なかった。

 それでも65年11月にリリースされたサード・アルバム『キンク・コントラヴァーシー』ではそれまでのブルースのカヴァーやガレージ・サウンドのナンバーも収録しつつ、当時流行の兆しのあったフォーク・ロックのティストを取り入れたナンバーもあり極彩色に溢れたアルバムに仕上っている。翌66年、シングル「サニー・アフタヌーン」の大ヒットの後にリリースされたアルバム『フェイス・トゥ・フェイス 』では、早くもコンセプト・アルバムにチャレンジ。レイ独特の偏屈・屈折・風刺感に溢れた歌詞と自らのルーツであるアイリッシュ・ミュージック、黒人音楽を反映させたメロディに、実験的で多様な楽器を使いながらのアート感を含んだサウンドがプラスされた。このレイの路線は67年に名曲「ウォータールー・サンセット」を経てリリースされたアルバム『サムシング・エルス・バイ・ザ・キンクス』、68年にリリースされた『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』、そして69年の壮大なコンセプト・アルバム『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』(元々テレビドラマのサントラとして製作されていた)の三作品で見事に結実している。いずれも珠玉のナンバーを揃えた名盤だ。ビートルズが66年に『リボルバー』、67年に『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』をリリースしている事から、キンクス、そしてレイはビートルズに劣らぬ創作ぶりを示していた事になる。

 このようにキンクスは素晴らしいアルバムを創りながらも、ビートルズやストーンズの後塵を拝し続けてしまったのは、60年代半ばにアメリカでの公演活動が禁止され、ブリティッシュ・インヴェイジョンの波に乗り切れなかった事が大きい。その為、日本でも長年正当な評価を受けられず、初来日公演を行なったのは、アルバム『カム・ダンシング』がヒットした80年代に入ってからだった。MTV時代になって、ようやくアメリカで成功を収める事ができたのだった。

 

 昨年11月にリリースされたキンクスの『ザ・モノ・コレクション』は、デビュー・アルバム『キンクス』から中期『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』までのオリジナル・アルバム7タイトルにライヴ盤『ライヴ・アット・ケルヴィン・ホール』、2枚組編集盤で通称“ブラック・アルバム”の『ザ・キンクス』の2タイトルを加えた内容で、まさにキンクスのサウンド変遷、そしてレイの才能の歴史が刻まれている(余談だが『ライヴ・アット・ケルヴィン・ホール』はかつてストーンズのライヴ盤『ガット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット』と並ぶ音の悪い、海賊盤に近いライヴ盤と言われていた。CD化されて以後、音質はかなり良くなっている)。

 

 このようにキンクスは芸術的で美しい曲を数多く創り、ソフトロック、ガレージからハード・ロックまで幅広く影響を与えた。しかしその中心メンバーで創造者でもあるレイ・デイヴィスは、偏屈で皮肉屋、更に屈折感まで備えている(というより確信犯のように武装している)。そうした人間:レイ・デイヴィスを踏まえながら60年代のキンクスの美しい曲を聴いていると、美と、人間の本質である醜い姿は表裏一体である事を痛感させられるのだ。

 更に、キンクスが英国を代表するバンドと言われているが、モンティ・パイソンやミスター・ビーンを産みだしたように、一見保守的で伝統を重んじながらも、変わり者や新しい事を素直に受け入れる土壌が英国には元々在るのだろう。

 

 2012年、ロンドン・ハイドパークでレイ・デイヴィスのライヴを観る機会に恵まれた。フェスティバルの為、時間は短かったが、キンクスのナンバーが多数演奏され、夕闇迫るハイドパークに響き渡った「ウォルタールー・サンセット」から、初期のガレージ・タッチのナンバーを挟んで、会場が大合唱となった 「ローラ」まで本当に素晴らしく、ああ、この人が創る曲は美しいな、と実感した事を記憶している(曲間のMCは相変わらずではあったが)。
 今年のグラストンベリー・フェスで再結成の情報もあるキンクス。珍しくレイ自身が珍しく”素直”に再結成に触れているので実現性は高いかもしれない。

 

Text by 金子 ヒロム