『ブルー&ロンサム』で成就したブライアン・ジョーンズの悲願と完全な決別

 

 ジミー・リード、ウィリー・ディクスン、ハウリン・ウルフ、リトル・ウォルター。

今回リリースされるザ・ローリング・ストーンズのブルース・カヴァー・アルバム『ブルー&ロンサム』に収録されているナンバーのオリジネーター達である。彼等は1950年代、隆盛を誇ったシカゴ、チェス・レコードのアーティストであり、彼等を含め、マディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカーのブルース・ナンバーをストーンズは結成当初、ステージで盛んに演奏していた。

 

1940年代から1950年代にかけて、アメリカでは黒人の産んだブルースは忌み嫌われる音楽だった。殆どのティーン・エイジャーは、人種差別からくる情報操作によってその存在を知ることはなかった。そしてブルースを利用して大人が作った白人シンガーによるロックンロールに熱狂していた。

一方、イギリスではロックンロールと同時に、ブルースも大西洋を越えてやって来た。それまでのポピュラー・ミュージックとは違う強烈なサウンドに若者は熱狂、取り分けブルースの怪しい魅力はマニアックな若者達に取り憑き、ロンドンではジャズと並ぶ最先端の音楽となった。ブルースの影響はロンドンだけ留まらず、後にアニマルズを結成するエリック・バードンやアラン・プライス、チャス・チャンドラーの育ったイギリス北部、また、ゼムを結成するヴァン・モリスンが産まれた北アイルランドにまで瞬く間に伝染していった。

 

ロンドン南西部の都市、チェルトナムで育ったブライアン・ジョーンズもブルースに取り憑かれた若者の一人だった。ブルースのレコードを聴きながら、地元のバンドでサックスを吹いていたブライアンは、ある日、チェルトナムにやってきたアレクシス・コーナーのギグを観に行く。イギリスで初めてブルースを演奏し、後に英国ブルースの父と呼ばれたアレクシス・コーナーのステージに衝撃を受けたブライアンは、アレクシス・コーナーの主宰するブルース・インコーポレッドのギグを観る為、毎週末、ロンドンのイーリング・ジャズ・クラブやマーキー・クラブに通うようになった。そして彼と同様にブルースの影響を受けた若者達(ロング・ジョン・ボルドリー、後にマンフレッド・マンに参加するポール・ジョーンズ、クリームのジャック・ブルース等)とライヴ後に行われるブルース・セッションに参加するようになる。このセッションを通じて自分のブルース・バンドを作る事を考えたブライアンは、ロンドンに引越し、昼間は仕事をしながら夜になるとクラブに出入りしてメンバー探しを始めた(ブライアンは音楽誌:ジャズ・ニュースにメンバー募集広告も出していた。唯一応募してきたのが後に6人目のストーンズと呼ばれるスチュことイアン・スチュアート)。

 

ある晩のセッション、エルモア・ジェームスを意識したエルモ・ルイスという変名で、手元が見えないように客席に背中を向けながらスライドギターを弾くブライアンのステージを目撃、ホンモノがいる!と直感したのが、同じくブルースに憧れる若者、ミック・ジャガー。そこにはミックの幼馴染で、当時ヒットを飛ばしていたチェス・レコードの異端児チャック・ベリーがアイドルのキース・リチャーズもいた。セッション後、ブライアンはミックと意気投合、キースも強引に引き入れてバンドの母体を作る。1962年、バンドはリーダーのブライアンによるアイデアで、シカゴ・ブルースの巨人:マディ・ウォーターズのナンバーから、ザ・ローリン・ストーンズ(結成当時は未だ“ローリング”では無い)と名乗るようになった。

 

こうしてブライアンの目指すブルース・バンドとして結成されたストーンズではあったが、完全プロ志向、尚且飛び抜けた音楽的才能を持っていたリーダーのブライアンにとって、ミックとキース、その友人のディック・テイラー(デビュー前に脱退、後にプリティ・シングス結成)の音楽サークル的ノリ、そして演奏の技量に大いに不満を感じていた。ホンモノのブルースをやるには現状のこのメンバーでは困難と判断したブライアンは、まずレパートリーにチャック・ベリー、ボ・ディドリー等のロックンロール・ナンバー、そして当時のリズム&ブルースのヒット曲を加える事を容認。次にキースのチャック・ベリー一辺倒なギターを逆に利用し、ブルースをアップテンポで演奏する事を始める。1963年1月には、ロンドン中のバンドが欲しがった人気ドラマー、チャーリー・ワッツを強引に引き入れ、後にビル・ワイマンも加入、陣容を整えたストーンズは、遂に同年6月、チャック・ベリーのカヴァー「カム・オン」でデビューする(ブライアンはデビュー直前、バンド強化策の仕上げとしてミックの代りのヴォーカリストにポール・ジョーンズを誘ったが失敗に終わる)。

 

人気に火が着き、シーンに躍り出たストーンズだったが、リーダーのブライアンが最も輝きを放っていたのは1964年、最初のアメリカ・ツアーにおける憧れのシカゴ、チェス・スタジオでのレコーディング、そして同年全英チャート1位を獲得したハウリン・ウルフのカヴァー「リトル・レッド・ルースター」のスライドギターまでだった。マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムが画策したミックとキースのソング・ライティング・コンビ:ジャガー&リチャーズによるオリジナル・ナンバーがヒットを連発、次第にバンド内での主導権を失っていく。ブライアンはアメリカ・ツアーで覚えたドラッグに現実逃避しスケジュールもスッポかすようになる。1967年以降は何度も麻薬で逮捕され、彼のバンド内で唯一残された存在意義は、音楽的才能を活かした多様な楽器演奏のみとなっていった。

 

バンドの創設者でありながら、度重なる麻薬問題を含め、すっかりバンドのお荷物に成り下がったブライアンに対し、1969年ストーンズはクビを宣告。当時最新だったカントリー・ロック、スワンプ・ロックをベースに、ブライアンが最初にやりたかったブルースを巧みにミックスしたアルバム『レット・イット・ブリード』をストーンズがレコーディングしている最中、彼は失意のうちにこの世を去る。ブライアンはブルースを演奏したくてバンドを作ったが、ブルースの先にあるものに気付くのが遅すぎた。既に気付いていたミックとキースによるその後のストーンズは御存知の通りだ。

 

ブライアンが自ら作ったストーンズを追われ50年近い月日が流れた。今回『ブルー&ロンサム』で、彼が目指していたブルースにストーンズはようやく辿りついた。かつてブルースを志す仲間だったミックによって、ようやくブライアンの悲願は成就したのだ。

 

「そう、コレだよ!オレがやりたかったのは。だけど、マディは?」

 

そう、もう一点。『ブルー&ロンサム』にはブライアン、そしてミックの最大のルーツ、マディ・ウォーターズのナンバーが入っていない。選曲に関しては、よりマニアックなブルースを追求し、敢えて大物中の大物を外した可能性もあるが、かつてバンド名を決定し、ブルースへの夢を描いていたブライアンへ、ミックとキースからの完全な決別とも考えられる。

 

来年は結成55周年を迎え、新展開が期待されるザ・ローリング・ストーンズ。原点回帰のアルバム『ブルー&ロンサム』によって、ブライアン・ジョーンズは伝説から、歴史の一コマになった。

 

Text by 金子ヒロム