--Rock music column--


※様々なロック・ミュージックについて、初心者でも判るマニアックな視点で取り組むStonesRocksの音楽コラム『Rock music column』。
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“歌う人形”にならなかったアーティスト/メリー・ウェルズ

 ミュージック・ビジネスの世界において、アーティストはレコード会社、プロダクションの゛商品゛だ。ヒットすればレコード会社、プロダクションは投資した資金の回収に掛かる。もしヒットしなければ、他のアーティストのヒットで賄いながらブレイクする時を待つ。だがそれはまだマシだ。アーティストを契約で縛り、一度でもヒットすれば徹底的に搾取し続けるケースもある。その仕組みは現在も厳然と活きており、ヒットに見合う報酬を得られるアーティストは一握りだ。

 しかし、かつてその仕組みに立ち向かった黒人女性アーティストがいた。“モータウン最初の歌姫”、永遠のポップス・ナンバー「マイ・ガイ」の大ヒットで知られるメリー・ウェルズ。今でこそヒットを出したアーティストが、自分の取り分はどう見ても少ない、と訴える事は良くあるが、彼女が行動を起こしたのはアーティストが主張できない“歌う人形”の時代だ。

 

 メリー・エスター・ウェルズは1943年5月13日デトロイトに生まれた。両親はウェルズが生まれた時に離婚。母親に引き取られた彼女の幼少時代は病弱で、脊髄髄膜炎による一時的聴覚障害、更に結核まで患う。黒人貧困層の居住エリアで暮らしていたウェルズは、徐々に健康を取り戻し、12歳の頃にはハウス・キーパーのアルバイトで家計を助けるまでになっていた。

 こうした貧困の日々の中、ウェルズは歌う事が心の拠り所だった。教会の合唱団を経て、昼間は学校とアルバイト、そして夜はデトロイトのナイト・クラブで歌うようになる。地元デトロイトのノース・ウェスタン高校で卒業を控えた17歳の時、彼女は将来の進路について科学者を目指そうと考えていた。しかし同じデトロイトの貧困層出身ミュージシャン、ジャッキー・ウィルソンやミラクルズの成功を目の当たりにした彼女は、手っ取り早く報酬が得られると音楽の道に方向転換する。

 

 1960年、ウェルズは地元のヒーロー、ジャッキー・ウィルソンが、モータウン・レコードの創始者ベリー・ゴーディと共にミュージック・ビジネスをしている事を知る。彼女は出演していたデトロイトのトゥエンティ・グランド・クラブで、時折ステージに立っていたジャッキーと知り合い、彼を通じゴーディに自らのステージを観てもらうように働きかけた。ジャッキーの推薦もあり、ゴーディは渋々ウェルズのステージを観に行った。ゴーディは彼女の特殊な歌い方に興味は持ったが、すぐにモータウンで売り出すところまでのインパクトは感じなかった。当時のモータウンは女性アーティストが少なく、一応使ってみるか、というレベルだったようだ。

 ウェルズはモータウン傘下ユナイテッド・サウンド・システムズとレコーディング契約を交わし、1960年9月に最初のシングル「バイ・バイ・ベイビィ」をリリース。地道な宣伝で徐々にヒット・チャートを上昇、R&Bチャートで最高位8位、また全米チャートで45位を記録する。翌1961年6月、2枚目のシングルでミッキー・スティーブンソン作曲によるドゥ・ワップ・ナンバー「アイ・ドント・ウォント・テイク・ア・チャンス」は全米33位。この連続ヒットによってゴーディはようやくウェルズの成功を確信、その年の秋に、ファースト・アルバムをリリースさせる。更に当時のモータウンのトップ・ソングライターでミラクルズのヴォーカル、スモーキー・ロビンソンに彼女が歌う曲の依頼をした。

 1962年、ウェルズとロビンソンのコンビによる最初のシングル、カリプソ・タッチのソウル「ザ・ワン・フー・リリー・ラヴス・ユー」はR&Bチャート2位、全米8位。続く「ユー・ビート・ミー・トゥ・ザ・パンチ」はウェルズ初のR&Bチャート1位に輝き、全米で9位を記録する。この曲はグラミー賞のベスト・リズム&ブルース部門にノミネート、モータウン・レコード初の快挙となる。更に「トゥー・ラヴァース」もR&Bチャートで連続1位、全米7位。ウェルズは全米ヒット・チャートにおいて、3曲連続トップ10入りを果たした最初の女性シンガーになった。セカンド・アルバムは全米チャート8位、既に彼女のレコード・セールスは100万枚以上となり、ゴールド・ディスクも獲得。モータウンはトップ女性シンガーとなったウェルズを“モータウンのファースト・レディ”というキャッチ・コピーで大々的に宣伝し始めた。翌1963年もウェルズの快進撃は続き、「ラフィング・ボーイ」、「ユア・オールド・スタンバイ」、「ユー・ロスト・ザ・スィーテスト・ボーイ」、「ホワッツ・ソー・イージー・フォア・トゥ・イズ・ソー・ハード・フォア・ワン」と4枚の全米トップ40入りシングルをリリース。因みにスモーキー・ロビンソンは「ユー・ロスト・ザ~」において、後にモータウンの名曲を量産するソングライター・トリオ、ホーランド・ドジャー・ホーランドを起用、彼等の最初のヒット・シングルとなる。

 そして1964年、ウェルズは満を持してシングル「マイ・ガイ」をリリース。R&Bチャートでは7週間連続の1位、そして全米チャートでは、それまで1位だったルイ・アームストロングの「ハロー・ドリー」を抜き1位に到達。「マイ・ガイ」は単独で100万枚以上のビッグ・セールスとなり、彼女の代表曲となった。更に同曲はイギリスでも大ヒット、全英チャート5位になりウェルズの名はヨーロッパでも知られるようになる。当時既にアメリカでブレイク寸前だったビートルズは彼女のファンである事を公言、モータウン・レビューでウェルズが英国ツアーを行った際、ビートルズのメンバーに招待された初めてのモータウン・アーティストとなった。彼等と友人となったウェルズは、後にビートルズのカヴァー・アルバムをリリースしている(抜け目のないモータウンはこの大ヒットに乗じて、当時ソロ・シンガーとして伸び悩んでいたマーヴィン・ゲイとウェルズのデュエット・アルバム『トゥギャザー』をリリース、R&Bチャート1位、全米チャート42位を記録。シングル「ワンス・アポン・ア・タイム/ホワッツ・マター・ウィズ・ユー・ベイビィ」は両面ヒット)。

 

 こうした成功の陰で、ウェルズが手にする報酬は一向に増える事はなかった。実は彼女が17歳の時にモータウンと結んだ最低条件の契約が、更新される事なくそのままスライドされていたのだ。更に彼女は「マイ・ガイ」の大ヒットによってもたらされた巨額の収益が、当時売り出し中のスプリームスに投資され、その成功報酬がスプリームスに還元されている、という話を知る。彼女はゴーディと契約の更新交渉をするが、全く相手にされなかった。

 ウェルズは遂にモータウンとの契約解除を申し出て、契約期間中に発生した正当な報酬の支払いを求める訴訟を起こす。裁判は約1年に渡り、未成年者と結んだ契約は無効である、という裁判所の判断によってモータウンと和解。結局、ウェルズは正当な報酬の全額を手にする事はできなかった。また和解同意書には過去の作品、また肖像権のロイヤリティを今後受け取れない内容も含まれていた。当時21歳だったウェルズにとってこれが限界だった。

 裁判期間中、ウェルズは音楽活動をストップせざるを得ず、また幼い頃に患った結核も再発。傷心の彼女に、新進レーベルで看板スターが欲しかった20世紀フォックス・レコードが手を差し伸べる。モータウンとは雲泥の差の契約を結んだウェルズは音楽活動を再開、2枚のシングルを全米トップ40入りさせる。このシングルがトップ10まで至らなかったのは、まだ20世紀フォックス・レコードがポップ・シーンに影響力が無かった事もあるが、モータウンが有力な音楽ラジオ局にウェルズの曲をオン・エアしないように働きかけた、という説もある。

 1966年、ウェルズは20世紀フォックスに見切りを付け、アトランティック・レコード傘下アトコと契約。カール・デイヴィスがプロデュースしたシングル「ディア・ラヴァー」は久々にR&Bチャートで6位、また全米チャートで51位に達した。また、この年に彼女はセシル・ウーマック(ボビー・ウーマックの兄弟)と結婚する(ウェルズにとって実は2度目の結婚。最初は1960年、デトロイトのシンガー、ハーマン・グリフィンと結婚したが、ハーマンの日常的な暴力ですぐに離婚している)。1968年にはジュビリー・レコードに移籍。セシルと共作のシングル「ザ・ドクター」はR&Bチャート22位まで上昇した。更に1970年、ウェルズはワーナー・ミュージック傘下リプライズ・レコードとスポット契約を結び、ボビー・ウーマック作曲のシングルをリリースしている。

 1972年、イギリスでタムラ・モータウンが「マイ・ガイ」を突如再リリースした。これがジワジワと話題になり、全英チャートで14位まで上昇するヒットとなる。このリヴァイヴァル・ヒットによってウェルズはイギリスのテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演。彼女にもう一度シーンに戻れるチャンスがやってきたのだ。だが、セシルと結婚し既に子供も生まれていた彼女は、家族との暮らしを最優先と考え1974年に突如引退を発表する。

 

 しかし平穏な日々は長くは続かなかった。1977年セシルと離婚したウェルズはカムバックを決意、エピック・レコードと契約を結ぶ。ミュージック・シーンの潮流は大きく変化しており、ウェルズは試行錯誤を重ねながら1979年にアルバムをリリース、1981年にその中からシングル・カットされたシングル「ジゴロ」が大ヒットする。ファンキーなディスコ・タッチのこの曲、ロング・ヴァージョンとショート・ヴァージョンが作られロング・ヴァージョンは全米のディスコ・チャートで2位、ダンス/クラブ・ミュージック・チャートで13位を記録。ショート・ヴァージョンはR&Bチャートでも69位に入り、メリー・ウェルズ健在を印象付けた。

 ウェルズはカムバックを果たしたが、その後エピックは彼女のレコーディングにかかる制作費、宣伝予算を抑えるようになり、リリースをしてもチャート・インする事はなくなった。1983年、ウェルズはエピックを去り、インディー・レーベルでレコーディングをしながら、ツアーを含むステージ活動に主軸を置いて見事に成功を収める。

 

 1990年、ウェルズは地元デトロイトのモーターシティ・レコードでアルバムのレコーディング中、声の異変に気付く。病院の診断の結果は喉頭癌。彼女は健康保険がなかったので、治療の為にステージ活動で築いた全財産を使い切り、家も売らねばならなくなった。彼女の窮状を知ったかつてのモータウンの仲間達、ダイアナ・ロス、メアリー・ウィルソン、テンプテーションズ、マーサ・リーブス等の発案に、ウェルズがリスペクトしていたディオンヌ・ワーウィック、アレサ・フランクリン、またウェルズのファンであるロッド・スチュワート、ブルース・スプリングスティーン、ボニー・レイット等が賛同、チャリティー・コンサートが開催される。

 そして1991年、モータウンとの間で再び争われていた契約期間中に支払われなかった報酬についての裁判でモータウン側が敗訴。27年間に渡った争いはウェルズ側に全額を支払う事で決着する。この最終判決の後、彼女は米国の議会において癌研究の為、政府資金の投入を呼び掛けた。周囲の協力を受け治療を続けたウェルズだったが、癌の転移、更に肺炎を併発、1992年7月26日、ロサンジェルス癌専門病院で逝去。49歳の若さだった。

 

 ウェルズの魅力は、なんと言っても黒人女性シンガーらしからぬ独特の歌い方だった。それまでの黒人女性シンガーは、チェス・レコードのエタ・ジェイムス、またウェルズと同い年で数々のヒット曲をリリースしたリトル・エヴァ、そしてアレサ・フランクリンのような、パンチの効いたシャウト的歌い方が主流だった。当時のレコーディングは歌とバックの同時録音が当たり前、声に迫力がなければバックに負けてしまう、といった事情もあった。しかし、ウェルズは迫力よりも正確な音程と抑揚を伴う、どちらかと言えば白人シンガーに近いスタイルを貫いた。彼女の最初のレコーディング「バイ・バイ・ベイビィ」は、テイク20までいってようやくミュージシャン側がウェルズの特性を掴んだ、と言われている)。余談だが、最初に「マイ・ガイ」がイギリスでヒットした1964年、その歌い方から彼女を白人シンガーと勘違いしていた放送局があり、実際に英国ツアーで訪れた彼女を見て驚いた、という逸話もある。

 

 ウェルズを苦しめたモータウンのブラック企業ぶりはザ・マーヴェレッツでも記した(『望まなかった成功/ザ・マーヴェレッツ』参照)。だが当時のアメリカ社会において、黒人の企業が成功を勝ち取る為には正攻法では難しい時代だった事も事実だ。そして、不当である、と声を上げたウェルズのスピリッツは、公民権運動が活発化した時代の黒人のスピリッツでもある。彼女は当たり前の事を当たり前に主張、“奴隷”のような“歌う人形”にはなりたくなかったのだ。しかし、黒人同士が争わねばならなかった事は残念な話であり、才能を持ったウェルズが人生の半分以上を裁判に費やし、その後の音楽活動がスムーズでは無かった事も非常に惜しまれる。

 

 ウェルズにとって全盛期は短かったが、ミュージック・シーンに遺した功績は誰もが認めるところだ。1989年、リズム・アンド・ブルース財団はウェルズにパイオニア賞を贈呈。また彼女の死後、1999年にグラミー賞委員会はグラミーの殿堂に「マイ・ガイ」を登録している。1987年と1996年にはロックンロールの殿堂入りに2回ノミネートされているが、残念ながらまだ殿堂入りは果たしていない。だが、彼女の深みのある声は今も活きている。

 

Text by 金子ヒロム

 



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